歩み (BFC本戦出場作品)

 彼はテロリストだった。人類最後の生き残りでもある。大規模な感染症が蔓延し、大気が有害物質に満たされた世紀をただひとり生き延びられたのは彼に相応の準備があったからだ。致死性の高いウイルスのワクチンを先駆けて開発し、自らに打ったうえで空港に撒くより少し前から。或いは彼と連携したカルト部隊がエネルギー施設を世界各地で同時爆発させるよりもずっと以前のある時期から。密閉型シェルターにコールドスリープ用のカプセルを設置し、彼はこつこつと備えを始めていた。
 そして地上で全てが終わり、かつて在った生命の痕跡すらも時が浚って擦り消した後、彼は漸く長い眠りから目を覚ます。老人のように細った腕を持ち上げ、覚束ない指の動きで自分に取付いていた管の類を全て外し、それからの十ヵ月を療養に充てても体力が想定水準まで回復することはなかったが、彼はもう出発することにした。保護服を身につけてシェルターを開放すれば、これでもう「帰れる場所」はこの世のどこにも存在しない。
 シールド越しに彼は砂丘を見渡した。遮るもののない鈍色の空の下、地上の全ては砥粉に灰を混ぜたような色に覆われ、地形の起伏だけがせめてもの不定形な濃淡を作りだしている。彼が潜伏した頃ここは鬱蒼とした森だったものだが。
 カプセルの下部には積載可能な分だけの水と食料が入っている。閉じた蓋部の僅かな窪みにバランスを取って腰かけ、パネルを操作して走行モードに切替えるとそれは騾馬のようにたどたどしく揺れながら前進し始めた。

 行けども行けども風景は変わらず、防護服の中は蒸れて暑い。外付けのポケットには地図とコンパスが入っている。
 海へ向かうことは眠る前から決めていた。できるだけ海に間近い森を選んで潜伏したのもそのためだ。
 カプセルの走行は遅々としたものだった。地下鉱物の足りないエリアでは磁気浮上マグレブが機能せず、特殊軟化鋼のタイヤは地面のガタつきを彼の脆くなった背骨に直に響かせてくる。蒸れながら、砂塵にまみれ、殆ど同一の風景の中を彼は終日進み続けた。
 夜になって急に気温が落ちてきたのに気がつくと、彼はカプセルを開いて防護服のままその中に横たわった。ポケットを外して慎重に縁に掛け、通気の隙間を確保してから蓋部を降ろす。夜間は少し速度を上げることにした。眠れなかったが、構わなかった。
 翌日は快晴、空は黒みを帯びた青一色で、地上は相変わらずぬめるような質感の砂に覆われている。ぎらつく熱射の中をただ進む。背中や臀部が軋んで痛み、時々降りて歩いてみたもののすぐに脚が縺れてよろめいて、そのたびにカプセルに縋りつくようにしてどうにかまた乗り上がった。
 日が過ぎるにつれ、防護服を着ていても彼の喉は炎症を起こして水分を摂ることも難しくなった。骨と皮ばかりの身体に比べて脚が倍ほどの太さに浮腫んでいる。吐気に襲われるたび顔面前部のシールドを外して嘔吐したが、その後は外気に触れた肌がガラス片で刺されるように痛んだ。次第に意識は朦朧としはじめ、発ってからの昼夜の数も思い出せなくなっていた。それでも海岸線はもうとうに越えているはずだ。震える指で破れた地図の一片を翳す。視界に在るのは砂と空。つまり、ここが海の底なのだ。
 横向けた顔をべったりとカプセルの蓋上に預け、移動しているのに変化のない風景を彼は見る。眼球が貼りつくように乾いても、網膜から繋がった神経が脳に信号を送り続けるかぎり、知覚を怠ることを彼は自身に許さない。
 滅びの時を企図したのは彼というだったが、彼をそこに導いたのは人類という種の同胞全体であったしその達成を許したのはこの惑星の天命であった、という彼の確信は未だ揺るぎなかった。だがだからこそ己に課した責務を放棄する選択もまた彼にはあり得ない。
この顛末を見届ける。人としての眼を以って。

 炙られるような日射しの中、突然ぐらりと体が傾いだ。奇妙な浮遊感の直後、受け身をとる余裕もなく肩に腕に背中に激しい打撃を受ける。ザザザッという大きな音が回転しながら彼を取巻き、後頭部に激痛を覚えたのを境に意識が途切れた。
 ゴツゴツと粗くひんやりと翳った地面に倒れている。体中の打撲痛を堪え半身を起こして顔を上げれば、円く切り抜かれたような深青の空が頭上遥かに遠のいて見えた。周囲の壁が高いせいだ。上方は砂質だが下部は岩の───壁?違う。すり鉢状の大きな穴に落下したらしい。隕石にでも抉られたものか。
 暫くぼうっとしていると、移動してきた太陽が穴の縁にかかって細い光を投げ込んできた。見るともなしに明るんだ地面に視線を移す。何か、白い模様のようなものがあった。彼は膝行いざって後ずさり、岩壁に手をついてゆっくりと立ち上がる。その全貌を目にしたとき、彼はそれが何であるかを直感した。
鯨。
子供の頃に見た、博物館の天井いっぱいに架け渡されていた標本が頭の中に蘇る。いま、岩の合間に飛び飛びに露出しているそれは、ひと続きの白い、骨の化石だった。
 ここでいい、と彼は思う。何とか動く左手で、彼は保護服を脱いだ。差し込んでくる日の光に肌を晒す。たちどころに紫斑が浮き出し、脳が膨れ上がるような頭痛がやってきた。眼球が押し出されそうな圧を感じる。くずおれ、骨の隣に上向きに倒れ、彼は遥か天上に輝く青を見る。
あれは、ああ、揺らめく水面だ。
底に沈む彼を置いて、一頭の美しい鯨がそちらに向かって泳ぎ去ってゆく。

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