氷砂糖の流れ星(コバルト ディストピア飯小説賞「もう一歩の作品」)

氷砂糖の流れ星
   

 シャトルから接続されたタラップを降りて、ぼくの足はついに再び地球の大地を踏んだ。同時に両腕を大きく広げる。何のためかって?
もちろん、こちらに向かって駆け寄ってくる僕の可愛い妻を抱きとめるために決まってる。
「おかえりなさいマット!待ってた……ずっと待ってた!」
「僕だって」
柔らかい、サトミの感触。ああ、どんなにこれを待ちわびただろう。宇宙船の中のTV通話でたまに話せてはいたけれど、どれだけこうして直接君に触れたかったことか。サトミの首の辺りに顔をうずめると、日の当たる草原に咲いた白い花を思わせる香りがした。懐かしい彼女の香りだ。と、それに混じるこの匂いは───
「───海苔と鮭?」
「あたり」
ハグの腕を緩め、くしゃりと笑って彼女が言った。そしておもむろに腰に巻いていたウエストポーチのジッパーを開き、中からビニール袋に包まれた彼女の故郷のソウルフード、ONIGIRIを取り出してこちらに見せる。
「梅とツナマヨもあるよ」
ラップに包まれたそれを見たとたん、猛烈な空腹を感じて僕はそれを彼女の手からもぎ取るようにして受け取り、殆ど何を考える暇もなくその場でラップを毟って貪り食っていた。全部無くなったところでやっと、慈愛に満ちた微笑みとともにこちらに向けられている彼女の眼差しに気づく。我に返ると急に気恥ずかしくなった。何だって、僕はこんな。
機体トラブルにより一人きりで宇宙船に取り残されて過ごした半年間、自覚していた以上にストレスを受けていたのかもしれない。地球に戻って早々、こんな奇行をするなんて───まあ腹が減っていたのも確かだけど───後で一応カウンセリングの予約を入れておくか。
彼女は僕の振舞いをとくに気にする様子もなく、僕の手を取って明るい声で言った。
「さあ、家(うち)に帰ろう。ちゃんとした豪華ランチだって用意してるんだから」

 久しぶりのサトミの手料理は、それはもう涙が出るほど美味かった。ダイニングテーブルいっぱいに並んだ肉料理に魚料理、卵に野菜にフルーツ、デザートにはカラメルソースがたっぷりかかった熱々のプティング。僕の好物ばっかりだ。心遣いが嬉しくて、ついついがっついて掻き込んでしまいそうになるのを、できるだけ落ち着いた風を装いながら平らげた。
「おいしかった?」
「最高だ。料理は美味いし、何よりこうして君と一緒に居られるのが嬉しいよ」
 リビングのソファに移って僕らは時々いちゃつきながら他愛のないお喋りを楽しんだ。宇宙船と地上の間で、バカ高い通信費用と回線のキャパシティを気にしながらの交信では許されなかった贅沢だ。
彼女は僕の大好きなクルクルとよく動く表情で、この半年間のいろんな話を聞かせてくれる。
僕らに懐いている隣家の犬が子犬を産んだ事、一緒に観ていたドラマシリーズの顛末、近所に出来た新しいスポーツ用品店のトレッキングシューズの品揃えがなかなかのものだってこと。
そういえば秋になったら二人で行こうって話してた山があったね。落ち着いたらまた計画を練り直そうか。
僕も何か宇宙船での苦労やなんかを面白可笑しく話してきかせたいと思ったけれど、どうも頭が働かない。少し眠いのかもしれない。
眠らないで、と彼女が言う。
「ディナーの予約をしてあるの。ほら、いつも行ってるあのレストランで。そろそろ準備して出掛けなくちゃ。久しぶりだからちょっとドレスアップしようよ。あの黒いタートルネックがいいんじゃない、あれはあなたによく似合う」
さっきランチを食べたばかりのような気がするけど、言われてみれば腹ペコだ。まったく、君といるとあっという間に時間が過ぎてしまうな。

 行きつけの店の料理はいつもながらの、五体に染み入る味わいだった。サーモンのエスカベッシュにアンチョビの効いたアヒージョ、鴨のローストに蛸のサラダにムサカにリゾット、こじんまりとした店のメニューを総ざらえするような勢いでオーダーしていると、そのうちの一品を馴染みのオーナーシェフがテーブルまで運んできた。軽い談笑のついでに
「ここの料理ならいくらだって食べられるよ」
と言うと彼は「光栄です」と破顔して、チーズの盛り合わせをサービスしてくれた。それならとワインのボトルを追加で頼む。これがまた品よく軽い口当たりで、サトミも
「酔っぱらっちゃうかも」
と笑いながら杯を重ねた。

 酔いを醒ますにはちょうどいい距離だろうと、車は呼ばずに歩いて帰ることにする。
夜道でサトミがそっと手を繋いできて
「きれいな月ね」
と空を見上げた。
夜の空。
舷窓から見つめ続けた暗い宇宙空間を思い出す。少し胸がざわついて、かすかに不安のようなものがこみ上げてきた。彼女に何か話したい、宇宙船での苦労話を、冗談めかして面白可笑しく、何か。
「───飲み過ぎたのかな。どうも僕の方が酔っぱらってしまったみたいだ」
立ち止まって僕は彼女にそう告げた。
こんなにも楽しい夜に水を差すようなことを言いたくはないのだけれど、どうにも足が前に進まないので、仕方なく。
「おかしいな。あんなに食べたのに、体に力が入らないなんて」
サトミは首を振って、いいの、と言った。
「いいのよ。確かに飲みすぎだったよね。ボトル一本空ける前にもグラスで二杯飲んでたでしょう。そこにベンチがあるから少し休んでいこう」
指さされた方に目を遣ると、なるほどそこに木製のベンチがあった。
なんだ、いつの間にか公園の中に入ってたのか。
彼女の言葉に頷いて、支えられながら二、三歩進み、くずおれるようにベンチに座る。座ったつもりがそのままずるずると体が横に傾いで倒れていく。サトミが素早く滑り込むように隣に腰かけ、座面に当たる前に僕の頭を膝の上に乗せてくれた。
(いいね、月夜にHIZA-MAKURAなんてロマンチックだ)
軽口を言いたかったけど、どうしたんだろう、ほんとに声が出ないんだ。口も動かせない。いくら飲みすぎたからってこんなになるかな。よっぽど疲れが溜まっていたのか───
目に映るのは漆黒の空だ。
他には何も見えなくて、星々の輝きばかりが目を射るほどに鮮烈な。
宇宙船の円い窓の外に無限に、無情に広がっていたのと同じ。
(だけど、)
ふうっと細く息を吐く。
もう恐ろしくはない。不安もない。だって頭の下に君の温もりを感じていられるから。
そうだ、面白かった事をひとつだけ思い出したよ。今はちょっと声が出せそうにないから、少し休んで家に帰ったら君に話そう。

 あれは不慮の事故だったからね、備えなんて殆ど無くて───空気と水は装置が循環して保たせてくれていたけれど、空腹はほんとに酷いものだった。3Dプリンタでシートやペーストの〝食品〟を合成して凌いでたんだ。でも原料だってそのうち尽きてさ。動くと消耗するからシートを倒して寝転がって、ずっとひたすら窓の外を眺めているしかなくて。そんな時に一度だけ、流れ星を見たんだよ。
うん、たぶん塵か何かが遠くの恒星の光を受けて反射したのが、たまたま窓の外を通り過ぎたんだろう。僕の顔の横を、窓越しにスーッと水平に流れていったんだ。水晶みたいに少し濁りのある透明な、小石の粒くらいの塊に見えた。
可笑しいんだけどさ、咄嗟に「美味しそうだ」と思ったんだよ、氷砂糖みたいだ、って。そしたらその瞬間、ブワッと口の中に砂糖の甘さが広がったんだ。錯覚だったんだろうけどあれは素敵だったな。甘かったんだよ、ほんの一瞬、実際に。あの時はすごく幸せだった。
ヘンだよね、真空に漂う石っころを見て美味そうだなんて。
───君も笑ってくれるといいんだけど。
ああ、温かいなぁ……
サトミ、君の香りがする。

 しばらく経って、誰かが部屋に入っくてる気配とともに照明がついた。それまで室内で唯一の光源だった星灯りが窓の外で色褪せる。カプセルチェアの中に深く沈みこんだまま微動だにしない里美の方へ足音が近づいてきて、大丈夫ですか、と声をかける。返事は無い。
 声をかけた白衣の技師はカプセルチェアの側面のディスプレイでバイタルを確認し、チェアから床を這うコードで繋がった機械を操作する。彼女の無駄のない所作とともに幾つかの機械音が途絶え、パネルの点灯表示が消える。技師は再びチェアの傍らに戻ってカプセルの覆いの部分を上げ、里美の青白い顔を目視して
「HMDだけ外しますけどそのまま休んでいてくださってかまいません」
と静かに告げた。殆ど無意識の反応のような里美の頷きに頷きを返し、それからその頭部や首筋に刺さっていた極細い針を抜いて特殊なヘッドマウントディスプレイを慎重に外していった。

「意味があったのかな」
それはまるで溜息のように小さな声で、技師がひとりで書類仕事をしているだけの静かな室内でなければ言葉としての輪郭はそれを発した里美の唇の前ですぐに淡雪のように溶けて消えていただろう。
「いくら食べてもお腹の膨れないヴァーチャルの食べ物ばっかり」
技師は回転椅子の角度を変えて里美の方に視線を向ける。予想に反して泣いてはいない。
「あんなものしかあげられなかった」
ぼんやりと目の前の空間に視線を投げて呟かれたその声が答えを求めているようには見えなかったけれど、技師もひとり言のように小さな声で言った。
「……最期のときをあなたと過ごせたことに、意味がない訳ないじゃないですか」

 帰り途、近所の公園のそばにさしかかると私達の家が見えてくる。窓に明かりは灯っていない。この半年間と変わらない、自分より先に帰っている人のいる筈もない家───いや、同じじゃない。
暗い夜空を見上げても、もうマットはどこにもいないのだ。
ひどく胸が苦しくなって、どうしてもこのまま真っ直ぐ帰る気になれずに外灯の明るい園内へふらりと足を踏み入れた。
ひと気のない遊歩道を歩いていくと、エントランスから最初の木製ベンチが目に留まる。つい先刻、仮想空間で最後に一緒に過ごした場所だ。固い塊のような感情が胸から喉元にせり上がってくる感覚に襲われたけれど、そのまま通り過ぎることはできなかった。ひとりでそっと腰かける。目を閉じてみても、ヴァーチャルでは確かにあった彼の頭の重みは感じられない。
悲しみの塊が解凍されずに喉につっかえているようで苦しい。

 疎標宙域(マークレスエリア)で一度航行範囲を外れてしまえば捜索して救助する事は不可能に等しかった。マットの意識が混濁し始めたとき、彼の同僚達は遠隔で上手く誘導して回線の繋がった検査用のヘッドギアを装着させ、個人で捻出するのが難しいほど高額な〝体感記憶拡張技術〟を使った仮想スペースを寄付を募って用意してくれ、最期の時を二人で過ごさせてくれた。彼らには感謝の気持ちしかない。誰だって、チームメイトを置き去りになんかしたかった訳はないのだ。

 ゆっくりと空に向かって目を開く。今日は空気が冷えていたせいか、漆黒に浮かぶ星々が冴えてひときわ大きく輝いている。
その時、見上げた視界の正面の何だかやけに近い気のする処を、大粒の流れ星がひとつ過ぎっていった。それと同時になぜか口の中にはっきりとした甘味が広がる。まるで氷砂糖を放り込まれたみたいな甘さ。
不思議だったけれどその瞬間、喉を塞いでいた塊が溶け出したように急に悲しみが涙になって溢れてきて、そうして私はそこではじめて声をあげて泣いた。
〈了〉

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