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【ぶんぶくちゃいな】コロナは政治か科学か――混迷する中国のデルタ株対策

東京五輪も終わって約1週間。香港や台湾でも過去最大のメダルを獲得し、興奮する人々は選手たちの凱旋を暖かく迎えた。その一方でその余話として上がったのが、「中国発」の五輪話題である。

中国のニュースを見ていても、陸上男子100メートルでアジア人として初めて10秒の壁を破った蘇炳添選手の活躍はかなり人々を元気づけたものの、決勝戦ではメダルに手が届かず、蘇選手の「凄さ」は認めつつもやっぱり物足りなさを感じているようだ。女子バレーの敗退はショックだったし、卓球やバドミントンも日本や香港、台湾に追いつかれデッドヒートを演じており、なんともすっきりしないというムード。

金メダル獲得数でも、「“香港と台湾を合わせれば”米国を抜いてトップ」という、積年の端切れの良さが感じられない結果で、週末になるとすでに五輪の話題はトップニュースには上らなくなっている――これは日本でも同じだが、中国ではちょっとめずらしい。中国社会の生活スピードはかつてのように一つのものにどっぷり浸る余裕をなくしてしまったのか。

いや、メディアがその話題を取り上げるのを躊躇しているようにも見える。たとえば、バレーの失敗にしても、中国の国芸だった卓球やバドミントンで追い上げられている現実、そしてアジア記録を打ち立てた蘇選手と決勝戦の勝者との距離など、それこそ「あと一歩」だったからこそのテーマや海外の選手についての話題もきっと人々は関心を持つはずだ。

だが、ここ数年、さまざまな規制にさらされているメディアは「失敗を振り返ること」「外国選手と自分たちの距離」を事細かに分析し、論評することで自分たちの弱点に触れるのを避けているようにも見えるのだ。

かつて、中国がぐんぐんと経済的に成長しているときに市場型と呼ばれたメディアが歓迎されたのは、そういう分析や論評だった。だが、今やそれらは「弱点をさらけ出す」とされ、タブーとなった。前述したように中国にとって今回の五輪は反省点も多いはずなのに、そういった論評がほとんど出てこないところにメディアの沈滞を顕著に感じた。

経済の上昇期には多くの人たちが、海外のケースを分析し、論評し、理解し、そして消化する方法で自分たちの血肉にすることを実践していた。だが、ここ数年、中国のメディアは「正能量」(ポジティブさ)の伝達を求められ、「負能量」(負のオーラ)をまとう報道は非難されるようになっている。その典型をこの五輪で目にした思いだ。

プラスかマイナスか。是か非か。

そんな二択の強制が、これまで何でもありだった中国のパワーを極端に弱体化させているように思うのは、わたしの視点がうがち過ぎているからだとはいえない事態が、今まさに起きている。

●庶民の不安と恐怖に立ち向かった医師


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