【ぶんぶくちゃいな】香港国家安全法施行1年、その執行の現実は

6月4日に、2019年まで30年間続いた天安門事件犠牲者追悼集会の開催許可が下りなかったことから予想されていたとおりではあるが、やはり2003年から毎年続いてきた7月1日の主権返還記念日も開催が許されなかった。香港警察は6月には7000人の警官を投入して、例年の会場であるビクトリア公園への市民の出入りを禁止したが、7月1日にはその数を1万人へと増大して厳戒態勢を敷いた。

昨年に続き、6月の集会、そして7月に市民デモを不認可とした建前は、「新型コロナウイルス感染拡大防止措置の集会禁止令」だった。だが、その一方で7月1日に政府主催で行われた主権返還記念行事は2019年以前と同じように、多くの社会著名人たちを招待して行われた。また郊外の土着性の強い地区でも「中国共産党誕生100周年」祝賀会を兼ねた返還記念行事もまた、集会禁止令は適用されなかった。

明らかに政府や党に親しいイベントは別扱いという、誰が見ても明らかなこの不公平には、これまでなら、「蘋果日報」(アップル・デイリー)などのメディアが大きな批判の声を上げたはずだった。いや、これまでの香港なら、こうした身内贔屓は一市民が法律に訴えることができた。だから、政府当局もそう簡単にはこれみよがしな差別を行わなかった。

しかし、今年はその全てが「徒労」に感じる。アップル・デイリーはすでに廃刊に追い込まれ、香港国家安全維持法(以下、国家安全法)の施行以降、司法でもこれまでの香港では考えられない出来事が続いており、市民の信頼感はずっと削がれてしまった。

その結果、7月1日の夜にビクトリア公園すぐそばの繁華街コーズウェイベイで起きた警察官襲撃事件に、市民は複雑な思いを抱いている。

事件は日本でも報道されているが、同日夜10時にコーズウェイベイのど真ん中で警戒体制にあった警察官が、通りすがりと思われた男性に刃物で切りつけられた。その襲撃の前後の様子が偶然、現場で警察の厳戒態勢の様子を伝えていたネットメディアの記者の生中継動画に捉えられている。

見てわかるように、黒いTシャツ姿の男はふと、通りすがりのついでに、ポケットに忍ばせていた刃物で警官を襲ったかのようだ。その瞬間にはスマホを見ながら歩く女性がすぐそばをすれ違っているが、警官の上げた声にびっくりして初めて異常事態に気づいている。

報道によると、逃げた男は持っていた刃物で自分の胸を刺し、そのまま力尽きて倒れたところを警官に取り囲まれ、押さえつけられて逮捕された。病院に運ばれたものの、約1時間後に死亡が発表された。

刺された警官は、警察の発表によると「傷が肺に達しており、病院に運ばれた当初は危篤だったが重体に転じた」とのことで、生命に別状はないようである。

保安局長(公安長官に相当)に就任したばかりのトウ炳強(「トウ」は「登」におおざと)・前警務処長(警視総監に相当)は夜遅く、「単独犯によるテロ行為」として譴責声明を発表した。同時に男が所持していたUSBチップに遺書が保存されていたとしたが、その内容については明らかにしなかった。

男は何者なのか? なぜ突然警官を襲ったのか? 事件の後、なぜ自分を刺したのか? 倒れた男を取り押さえた警官、そして応急処置を施した救急隊員は男に適切な措置をしたのか? 

突然の事件には皆が驚いたが、翌朝から男が取り押さえられたデパートのショーウインドー前に花を捧げる市民が出現した。香港紙「明報」は小学生くらいの2人の息子を連れて花を手向けようとした女性が「みなが怯えて出てこなくなれば、声を上げることもできなくなる。そうなればおしまいだから」と語ったと伝えている。

その後、死んだ男は著名な飲料品メーカーの職員だったことが明らかになる。事件翌朝には警察は職員が働いていたオフィスを捜索し、そのことが明らかになったのは夕刻だった。この点でもメディアは完全にほっておかれてしまっている。

男の名前も、年齢も明らかになったが、なぜ襲撃に及んだのかは分からないままだ。寡黙で人付き合いのない人だったという同僚たちの声も流れてきており、その本当の気持は分からない。

ただ、男の勤め先の飲料品メーカーは夕刻、その事件性には一切触れず、職員の死を悼むとともに遺族のためにできる限りの手助けをしていくとする声明を発表した。

これを読んだある友人はつぶやいた。

「やってやろうじゃないか。あの会社の商品を10ダース購入するぞ」

日本で暮らす人間からすると、こんな反応は奇妙だろう。だが、明らかに人々の気持ちは勤務中に襲われた警官ではなく、男の方に傾いている。そしてまだ犯行に及んだ理由も明らかになっていないのに、彼は「勇者」「烈士」という言葉で呼ばれ始めた。

人々は彼に、ちょうど1年前の6月30日に施行された国家安全法の下で生きる自分たちと同じ「弱さ」と「怒り」を感じたのである。

●政府機関は弁護士ルールを知らない?


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