【ぶんぶくちゃいな】「安全」という名の「規制」 インターネット安全法成立
先日、ある中国文化専門研究者と話していた時、中国からやってきた文化人とともに日本で話をする時、「中国の検閲について教えて欲しい」という質問が一番嫌だよねー、という話になった。
この研究者は日頃から中国で検閲と直面する文化人たちを支援していて、中国の文化面で行われている当局の検閲についても熟知している。それを「ないもの」と言っているわけではない。逆に「検閲」という制度を含めて中国の今の文化を日本で紹介している。
実はわたしもつい最近、その研究者が言ったような場面に遭遇した。拙著「中国メディア戦争」から中産階級について話をする機会があったのだが、やはりメディアの「検閲」について質問が出た。
こうした事象は、日本では中国社会、あるいは文化というと、一般的にすぐに思い浮かぶ話題が「検閲」なのだということを示している。だが、われわれが心配しているのは、日本において「検閲」という言葉だけが独り歩きしており、そればかりに関心が集まっているように感じられる点だ。
検閲があるのは事実だ。だが、検閲される前の社会に何が存在しているのかを知らずに、検閲という「ハードル」にばかり関心を寄せるのはただの「話題探し」であって、「文化理解」とはいえない。
つまり、我われが紹介している現状それよりも「検閲」にこだわりすぎると、中国の現実は見えてこない。
というのも、中国においていわゆる「検閲」とは、あちこちに普通に存在する「常態」になっているからだ。社会主義という建前の国における「政治的に正しいこと」の基準ラインは、実はとっかかりやすい文化や表現の文言だけではなく、大げさに言えば衣食職住行のすべてに直接、間接的に影響を与える大原則になっているからである。
本当に中国の「検閲」について知りたければ、まず中国人が日常置かれた生活環境や「検閲前の状況」を理解する必要がある。そうやって「政治的に正しいこと」を目指すことが目的な「検閲」と、実際のギャップを知ろうとせずに、検閲という制度それ自体をこねくり回しても付け焼き刃な情報以外何も身につかない。
逆に検閲というフィルタリングの「前」と「後」を比べることで、そのフィルターがいかなるものかを理解することができる。フィルターは常にその時の必要に応じてアップグレードしており、どんなに根堀葉掘り尋ねたところで、それを聞いた時点でそれはすぐに過去のものとなっている可能性が高いわけで。
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