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「テロリズムとの共存を考える」(捜狐社説)

米国オーランドで起きたLGBTナイトクラブでの大量射殺事件。中国のSNSで多くの人たちにシェアされていた、ポータルサイト「捜狐」の社説を転載許可をもらったので翻訳、シェアします。

社会秩序について人々は驚くほど安定志向で、往々にしてそれが道徳的な保守主義と社会の硬化をもたらし、いかなる形の社会的な異端や、秩序から外れるもの、そして社会の前進を拒絶する。だが時として、それは前向きな効果をもたらすこともある。変化にびくびくせず、地震や疾病、テロによる攻撃という大規模な恐慌に直面したとき、まるで沈没するタイタニック号で冷静に演奏を続けた音楽隊のような落ち着きをもって冷静でいられるのだ。

それこそが成熟した社会が人々を引き付ける資質だ。それはまた、昨日(6月12日)、米国オーランドでテロ襲撃が発生してから、米国人であろうと、それを見ていた中国人であろうと、考えるべき、そして取るべき視点でもある。テロリズムによって自分の生活と社会秩序を変えることなく、またテロリズムがもたらした殺傷に驚きびくびくして、情緒不安定になったりすることなく、それと共存するかを学ぶときではないだろうか?

このような物言いは一瞬、中国的な「治安維持」論のように聞こえるだろう。じゃあ上海浦東空港の爆発事件にもそんなに落ち着いていろというのか、無辜の死の原因を突き止めず、爆弾事件の背後にある社会的、制度的な要因を考えなくていいのかと、必ず誰かが問うてくるだろう。あるいは、オーランドのテロの後、イスラム過激派、移民の同化、銃規制などの問題を振り返らなくてもいいというのか、と。

もちろんそうではない。実際、事件から24時間も経たないうちに、人を不安にさせるさまざまな発言や政治予測が飛び交い、政治ウォッチャーたちはすぐにムスリム、移民、銃、そして同性愛などの問題が米国大統領選挙においてくすぶり始めるはずだと予測した。中国のネットユーザーも少なからずの人たちが真っ先に排他的、保守主義のトランプ氏の側に立ち、まるで9.11事件直後の「今夜はぼくらも米国人だ」的な共同の仇討ムードを漂わせている。今回の事件は紛れもなく米国史上最多の死傷者を出した、個人によるテロ襲撃事件であり、またそこには複雑な宗教、民族、移民、同性愛の問題が絡んでおり、米国の政治と社会に深い影響をあたえるだろう。

しかし、テロリズム、特に新型テロリズムが、ポスト・モダンからグローバリズム化に向かう社会の付随物だと思えば、理解できないことはない。つまり、このようなテロリズムを回避するのはほぼ不可能なのだ。巨大な、受け入れられないほどの代価を支払うかグローバリズムを中止しなければ、あるいは巨大なコストを使ってほぼ不可能なほどのセキュリティシステムを構築しなければ。前者はつまり、現有の社会秩序を維持している基礎が崩壊することを意味する。そして、後者は経済的に受け入れられないだけではなく、日常生活が緊急状態におかれてセキュリティの名のもとに過剰な軍事化が行われ、庶民と社会秩序にとって直接の脅威となる、米国で近年起こったファーガソン事件[注]とボルチモア事件[注]が良い例だ。

ファーガソン事件:2014年8月、米ミズーリ州ファーガソンで18歳の黒人青年が警官と言い合いになり、射殺された事件で、抗議する人々が大規模な暴動を引き起こし、同地は非常事態宣言が行われ、夜間外出禁止令が発令された。]

ボルチモア事件:2015年4月、米メリーランド州ボルチモアで黒人青年が警察に取り押さえられた後死亡した事件。警官6人が逮捕され、訴追されたが、一時は抗議デモが暴動化し、非常事態宣言が発令された。]

一方で、今回のテロ襲撃事件自体の性格を見てみよう。さまざまな面から、それは先に起きたボストンマラソン爆破事件[注]とよく似た新型テロリズムの特徴を示している。それは一つの点だけを問題視して起こるテロリズムであり、また多くの場合、個人による、即ち「ローンウルフ」型だ。これはすでに近年米国で発生している襲撃事件の主なスタイルとなっていて、手のうちようがない。彼らは現実の政治過激化主義の紛争から生まれるものの、既有の組織犯罪や過激主義を監視する安全関連機関の偵察や予測ではそれを見つけることが難しい。そして庶民は往々にして身辺の極端な政治ムードにまったく気づかないばかりか、煽り立てる政治家たちに踊らされて、最終的にトマス・ホッブズ(注)の時代から続いてきた、中産階級の道徳の中核である寛容さを失っていくかもしれない。それはもともと我々がさまざまな自然や人為的な事故に直面した時に、落ち着き、しっかりと社会の自由や秩序を守っていくための倫理的基礎だったのに。

ボストンマラソン爆破事件:2013年4月、米国ボストンで行われていたマラソン競技中にゴール付近で連続して起こった爆発事件。3人が死亡、280人以上がケガをした。犯人は米国に移民してきたチェチェン人の兄弟で、その後も警官らと激しい銃撃戦を展開し、一人は死亡、弟が逮捕され、死刑判決を受けた。]

[トマス・ホッブズ:17世紀のイギリス哲学者。「リヴァイアサン」で西洋的国家概念を論じた。]

具体的に言えば、極左テロリズム、極右テロリズム、宗教テロリズム、そして他国による国家テロリズムなどのうち、米国やその他の成熟した民主主義国において庶民と安全機関が直面するテロリズムとして増えているのは、ローカルな単一のテーマに対するテロ行動だ。たとえば、動物の権利、環境や生態に関する話題、堕胎反対、遺伝子組み換え反対など。直近では、遺伝子組み換えに反対して起こったテロ襲撃は21世紀に入ってから米国で50件以上起こっている。エコロジー問題に関するテロ行為は今後も続くだろうし、単一テーマは無政府主義者の民兵の行動スタイルと結びついていく。

オーランドの襲撃事件が証明したのは、右翼テロリズムが新たな変化を迎えており、それはこれまでのような現地白人の民兵だけではなく、今回の襲撃者であるアフガンからやってきたオマルのような新移民も参入し始めていることだ。さらに、彼の襲撃の動機は米国文化における同性愛に直接向けられ、男同士の恋愛に対する不満が行動の引き金となった。つまり、新移民の文化融合問題もまたテロのきっかけになることが明らかになったのだ。

もちろん、ISISの存在とネットワークがこれらのローンウルフの行動にさらに複雑な背景をもたらしている。そしてそれこそが新型テロリズムの特徴なのだ。

遠隔地にあるテロ組織に分散的、自発的に呼応し、単独で一方的に行動を起こし、個人の極端な嗜好に聖戦という光り輝く理由をつける。それは先のボストンマラソン爆破事件もそうだった。初期のアルカイダが世界各地でしかけたテロ攻撃も多くがそんなスタイルを取り、パリのテロでも似たような傾向が見られた。

ただ、そんな高度にローカル化された単独行動のスタイルは、完全にグローバリズムの自由な流動条件を利用し、専門知識と技能、さらには緩い銃器市場を利用したものだ。理論や制度面において移民に厳しい選別を行い、銃器の販売に厳しい登録制とチェックを行い、ある種の職業に厳しい背景調査を行ったりという措置を取っても、根本的にそれを予防することは難しく、無駄に行政コストがかさむばかりだろう。行政機関の権力拡大を除けば、庶民がはっきりと感じることができるセキュリティの改善はほぼない。

言い換えるなら、このようなスタイルのテロリズムに対してなすすべはない。軍事行動による大規模な空爆を仕掛けて、アルカイダ、タリバン、ISISを潰していくことは必要かもしれないが、その効果もまた一時的なものでしかない。邪悪な枢軸国に対して貨物輸送を禁じ、封鎖、打撃、再度のバランス作りなどもまた外部的な脅威を改善するかもしれないが、イデオロギーの対立と衝突を根本的に消し去ることはできない。もし、歴史上の十字軍の遠征や、聖戦による聖戦への対抗を繰り返したくなければ、対外的に慎重で堅実な武装闘争を行い、自由の秩序を守る一方で、内部社会には寛容さを維持することが唯一の選択となる。そうやっていかにテロリズムと共存することを学ぶのだ。

ここで言いたいのは、このような新型テロリズムを正視することは必ずしも悪に歩み寄るということではない。社会の違いや政治紛争を理解することだ。というのも、内部における寛容こそが自由や秩序の基盤だからだ。歩み寄りは外部の脅威、特に長期的に自由や秩序に影響する脅威にのみ関わる。

テロリズムが自動的に止むことはない未来において、内戦状態を解決しさえすれば良いというものではない。内部におけるテロリズムとの戦いだと称して無制限に公民権を剥奪する権力を警察と行政当局に与えてしまうこと、それこそが自由や秩序の最大の脅威であり、社会秩序を永久に変えていくことになりかねない。

ホッブズは最初に、悲痛で苦しい生活は、死に比べて最大の邪悪だと述べている。死を恐れない公民だけが死に向き合い、生活を続けることができ、またテロリズムに対抗し、すべての邪悪に対抗する出口を見つけ出せるのだ。それは米国人にも、あるいは世界人民にも、同じように時代が求めているものなのである。

(原文:捜狐社説「奥兰多枪杀案警示新型恐怖主义风险」

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