【3月1日のツイート】

《倫理的な問い》


倫理的な問いで、主観的な見方を知る事ができる。
それぞれの人間が、どのような答えに辿り着くか?を見る事で、それぞれ人が生きてきた軌跡を推測する事ができる。
自分の想像しなかった経験とそこから導き出される主張を聞き、それを自身のものと比較する事で、興味深い洞察を得る事ができる。

《日常を問う》


「君は見てはいるが、観察をしていない」(シャーロック・ホームズ)
なぜ鳥は空を飛べるのか?なぜ飛行機は空を飛べるのか?なぜ気球は空を飛べるのか?なぜロケットは空を飛べるのか?これらは、全て同じ原理で飛んでいるのか?
何気ない日常を観察し、問い、調べ、考える。それは時に息苦しい。

《日頃のインプット》


「何となく見る事から、目的を持った観察へ」
例えば、電車に乗る時に、「性別の割合はどのくらいだろうか?」「最も多そうな年齢層は?」「電車に乗っている人は何をしているか?」「広告はどのような内容だったか?」これらの質問に答えられないなら、観察はしていないと言えるだろう。

《研究について》


「研究とは、終わらない中間報告書である」
研究によって得られた結果を分析して考察を残す。それによって、新しい知見を発見する。
それを思想体系に取り入れ、永続的な変化をもたらす事ができる事を望む。
ただひたすら、終わらない知識と思考の深化、内面との対話の繰り返し。

《クリティカル・シンキング》


『日常を観察して得た情報を批判的に検討してみる(クリティカル・シンキング)』
「問題はないか?」「他にどのような可能性があるか?」「類似した事例はないか?」
見かけの姿に囚われない。多面的に捉える。本質を見抜く。
現状の問題を発見し、問題解決の方法を模索して、ひたすら改善する。

《疑問を持つ》


『大切なことは、何も疑問を持たない状態に. 陥らないことである』
「常識とは、18歳までに身につけた偏見のコレクションである」
「状況証拠というのは厄介なものだ。少し視点を変えるだけで、全く同じぐらいの確からしさで、真逆の解釈を導ける事もある」
厄介なのは、疑えないイドラである。


《問いを立てる》


『抽象的な問いから具体的な問いへ』
「疑問」を持つ事は。それほど難しくない。
しかし、抽象的な疑問では、それを解決する方法を模索しにくい。
「問い」とは、疑問を検証可能な仮説の事である。
「問いなき人生は、退屈である。問いある人生はイバラの道である」

《関連の情報を集める》


『情報収集は、広げる事と狭める事を同時に強いられる行為である』
「いかに広く考える事ができるか?」
「いかに必要ない情報を捨てる事ができるか?」
「いかに深く思考する事ができるか?」
垂直思考と水平思考を楽しみながら活用する。
知識の装飾品を多く身に着ける事に囚われるな。


《学ぶ事》


「1を聞いて10を知る。そして広がる100の未知」
「100を尋ねて10を知る。そして広がる1000の未知」
学べば学ぶほどに未知が広がっていく。
そして、本当に今、自分は学んでいるのか?と疑いたくなる。
「学ぶとは?」という問いが頭の中をグルグル巡る。苦しみに見いだされる快楽。

幼稚な万能感


読書を始めて少し経つと、古典や名著に感化され、この世の真理を体得したような気分に陥る事がある。
だが、それはとても幼稚な万能感である。
さらに探究を進めていくと、悟りを開いた気になった自分を恥じるようになる。
おそらく、真理は傲慢を嫌う。
ゆえに、私には微笑まないだろう。

《根源的な恐怖》


『知の探求者は、儚く弱い存在である』
常に、自分が無能で、今のままだと生き残る事は出来ないと思い込んでいる。
ゆえに、誰にも負けない領域を作ろうとして、専門的な知識を身に付けようとする。
しかし、皮肉にも、専門性を磨いても、日常の悩みから解放されるとは限らない。

《考える大切さとメディア》


『ミヤネ屋の発言』
ミヤネ屋の「休校に休園!子供たちにどこへ行けと言うんですか!?」発言は、民衆がメディアによって思考停止になってしまうのを防ぐために、あえてツッコミどころをつくる事で、民衆に「考える大切さ」を伝えようと狙ったものという可能性を砂粒ほどは考慮したい。

《自分で気づけない固定観念は根強い》


思考していて感じるのが、なるべく固定観念を取り除いて思考しているつもりでも、案外、固定観念というのは根強いものだという事。
どうしてもこれまで生きてきた中で得た経験や知識などが積み重なって、自分では気が付かない思い込みというものが蓄積されていく。

《なぜ他者と交流するのか?》


『他者との交流により、固定観念の排除に繋がるかもしれない』
不思議な事に、他者が同じような思い込みをしている場合、それを指摘する事はできるが、自分がやっていても自分で指摘する事は難しいと感じる。
他人と交流するのは、自分の思い込みをなるべくなくす事に繋がるのだろうと思う。

《子供のように考える》


『子供ならどのように考えるだろう?』
このように考えるだけで、自分の固着した思考が解放される事がある。
子供なら、法律や倫理、社会の面倒な暗黙の前提などの概念も、専門知識や教養などの先行知識がないので、一見するととんでもない思考をするが、それが自分の思考を触発する事がある。

《子供という強敵》


歳を重ねるにつれ、脅威を感じさせる対象は、「現状、自分よりも高みに座している熟練者」よりも「近い将来、自分をあっさりと追い越してしまいそうな新勢力」だと思う。
若い頃は、年上に愚痴を言っていたが、これからは自分たちが言われる側となる。
上を狙いつつ、下にも警戒しなければならない。

《知識よりも物事を批判的に考える事が重要だろう》


『デマを信じる事に対して知識不足は的外れなのかもしれない》』
”知識不足というより、アクティブな「その場で使える知識」が不足しているのだと思う”
(『知識よりも物事を批判的に考える事が重要だろう』
知識不足と言い始めたらキリがないと思う。知識の生産量と個人が吸収できる知識量を比較すると、知識の生産量の方が多いだろう.個人的には、「ある情報が本当かどうかを批判的に検証する態度」こそ重要だと思う。検索するスキルや読解力など)

《知っている事と行動できる事の差》


『よく聞けば何とか思い出せるくらいの眠った知識をその場でとっさの判断には活かせないのでは』
(『知っている事と行動できる事の差』
知っている事と行動できる事の差だろう。スポーツなどで、頭ではどう動けば良いのか分かっていても身体がついてこなかったり、後になってコーチの言葉を思い出して「どうしてあの時にできなかったのか?」と後悔するような感じだろう)

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