【読書について~聞いた話と所感~】



《漫画は有効だった》

漫画は、文章と比べて、より普段の物事の見え方に近い(風景や人物のポーズや表情などが描かれている)からなのか、記憶に残りやすいし、思い出す時に文章のみでなく、写真を思い出すような感じで振り替える事ができる気がする。
文章を読む時も、漫画を読んでいた時に何となく身につけたコマのようにイメージする方法を駆使して、あたかもマンガのように文章の状況をイメージしていた。
普段の生活でも、一瞬を写真のように記憶し、それを忘れないように、マンガのようにシンプルな形にして覚えておく事に繋がった。
さすがに、記憶力の天才のように、生まれた時から現在までのすべての出来事を完全に覚えているわけではないが、それでも、印象深いシーンはマンガのように覚えている。

《読書感想文》

元々、読書が好きだったが、読書感想文は好きではなかった。読書感想文が出されると、強制されて読まされている気がして、あまり良い気分ではなかった。夏休みに本を開くと、脳裏に読書感想文がちらついて集中できなかった。本当に読書感想文は読書に邪魔でしかなかった。
(今では、読書感想文をメルカリで買えるらしいので、面白い時代になったものだ)
また、自分は、架空読書感想文という遊びをする事があった。ありもしない本について読書感想文を書く行為だ。むしろ、個人的には読書をして感想文を書くよりも遥かに参考になった。
ありもしない本の感想を書こうとするわけだから、最初は全く筆が進まない。まずは、あらすじや本の内容をプロットのように書こうとするのだが、「そんな本があると思ってもらえるのか?リアリティがあるのか?」などと考えてしまう。
そうなると、次に思い付くのが、そもそも執筆者はどのような方法で本を書いているのか?プロットはどんな感じで書いているのか?目次はどのように書いているのか?あらすじはどのように書いているのか?タイトルはどのように書いているのか?などの質問が思いつき、それについて調べる。
そうすると、今までは全く意識していなかったが、手に取った本は、タイトルや目次、あらすじなどがよく練られていたのだと理解するようになった。
漠然と蓄積された読書の経験が、一つの一貫したプロセスで成し遂げられていたのだと気づくのは面白かった。
そして、得た知識を使って、架空読書感想文を創作してみようと試みる。今度は知識はあっても、なかなか書けない。この時に、知識がある事と実際にやれる事の差をハッキリと感じた。それでも試行錯誤していると、とりあえず形にはなった。夏休みではなかったので、特に誰かに提出するわけでもないが、作る事自体が楽しかった。
他にも読書好きの人の中には、「架空読書会」や「存在しない書籍の冒頭の創作」というものを行っている人もいるらしい。

「架空読書会」とは、何人かで集まって、ジャンケンで最初の一人を決めて、その人が架空の書籍のタイトルとその内容の感想を述べて、それを全員が読んだと仮定して感想会を開くというもので、即興を楽しむ事ができる会だと思う。あいにく、ボクは一人でいるのが好きなので、おそらく体験する事はないと思うが、カフェなどで開かれるのだとしたら、角の隅っこの席から、その様子を眺めつつコーヒーでも飲みたいところだ。

また、「存在しない書籍の冒頭の創作」とは、例えば、夏目漱石の我輩は猫であるの「我輩は猫である」や太宰治の走れメロスの「メロスは激怒した」など有名な冒頭のように、印象的な架空の書籍の冒頭を創作する遊びだ。ちょっと軽く作るなら「私は感激した。美少女のような動きをしたおじさんを見て、電撃を浴びせられた気がした」みたいな感じだろうか?

《泣く事を前提とした読書は下劣か?》

ある人が「泣けたり笑えたりするオススメの本はありますか?」と尋ねたところ、「そのような事を目的とした読書は下劣である」と言われた、という話を聞いた事がある。
なぜ、泣く事や笑う事を前提とした読書が下劣であると言われるのだろうか?
そう言った人は、感情は書籍を読んでいる時に自然と生まれるべきで、事前に特定の感情を想定して読む事は人為的な操作なので、不自然な感情であるから、そういった行為は下劣だ、という意味合いなのだろうか?
ボクは別に、事前に特定の感情を想定した読書に対して否定的な立場にはないのでよく分からないのだが。
今回の事例と近い話を類推してみると、例えば、CMや映画で、わざとらしい感動シーンがあると冷めるという人の話などだろうか?
こういう人の主張では「さあ、ここですよ!ここが感動のポイントですよ!皆さん、こういうの大好きですよね?感動しますよね?そうでしょう!そうでしょう!私は皆さんがどんなところで感動するのか全て知ってるんですよ!」みたいな感じに言われているようで腹が立つ、と聞いた事がある。
自分の感情を他人にコントロールされているような感覚が嫌いという事だろうか?
そのような意味合いなのであれば、確かにボクも分かる気がする。
哲学の世界では、自由意思が本当にあるかどうかで議論が起こる事もあるらしいが、それはとりあえず置いておこう。
今ここで重要なのは、自分が自分の意思で何らかの選択を選んだような気がする事が重要なのだろう。そして、それを他人に干渉されたと思ってしまう事で、不快になる。興味深い話だ。

《読書のメリット》

「一日に数冊の書籍を読んでいた頃は、語彙力もあったし、会話の時もスラスラ言葉が出ていたし、文章を書く時も上手く言葉を選べていた気がする。だけど、今では読書をしなくなったからか、会話をする時も、『ほら、あれだよあれ!えっと、ほら、あれ!』という感じで適切な語彙が出なくなった」という一文を見かけた。
面白い話だ。読書によって、言葉を使う全般的な能力が高まるらしい。思えば、読書を始める前は、学校の国語の読解は全くダメだったが、読書を始めた後は、伸びていた気がする。特に、読解力について書かれた書籍を読んで、著者の意図と自分の意見、問題作成者の意図などの整理が大切だという話を見てからは、とても面白く感じるようになった。
また、論理学の書籍を読む事で、いかに普段の自分が論理的に文章を読めていなかったか痛感させられた事もあった。
そうした経験を念頭に置いて読書をしたりSNSで文章を見たりすると、意外と論理的な読解に欠けた文章に出会う事もある。
断言口調の多い著作は、何も考えずに音読する分には爽快感があるのだが、論理的なツッコミをしながら読むと1ページごとにツッコミどころが表れるものもあるので、二度も美味しい。
また、SNS、ボクは特にツイッターを使っているが、そこではツイートに対するリプや引用RTなどが行われている。それを見ると、些末な事を指摘したり、そもそも言ってない事についての批判をしたり、極論に極論で応酬したり、無関係な発言をしたりなどが行われている。140字しか書けないゆえに、どうしても文章がシンプル、悪く言うなら過激になりがちなのは仕方のない事だろうが、それにしても面白い。読書で出会う本は長い文章を書く事ができる人しか集まらないので、どうしても、ある程度、絞られてしまう。
そこが良いところでもあるのだが、短い文章しか書けない人たちの意見が見えにくいところが個人的に気になるところだった。
しかし、SNSならば、書籍が書けるほどの文章力がなくても自由に文章が書けるので、それこそパソコンやスマホを持っている人なら誰でも意見を好き勝手に主張する事ができる。
そんな世界で行われる文章の応酬は、見ていると面白い。長い文章が書ける人の世界だけを見つめていると見えないものが楽しめる。

《自己啓発本は出来る人にしか出来ない内容ばかり》

ある人の話に「自己啓発本は、出来る人間についての話しか書かれていない。出来ない人の例を挙げてくれ」というものがあった。
確かに、自己啓発本は、「やりたい事を明確にする。やりたい事をリストアップする。すべき事としたい事、できる事を分ける。それらの優先順位をつける。選択と集中をする。本当に大切な事にだけやる。数値化して測定できるように工夫する」など、それが出来れば苦労はしないという話が多い。
マッキンゼーやハーバードビジネススクール、MIT、東大、オックスフォード、スタンフォードなどを中心に様々な書籍を読んだ事もあった。役に立ったものもあったが、役に立たなかったものもあった。
正直、個人的に最も効果のあるやり方は一つしかないと思う。それは「実験のようなやり方」だ。
まず問題を見つけ、それに対する仮説を立てる。それを検証してみる。望んだ成果が出たのかを評価。満たしていないなら何が問題なのかを確認する(目標設定が無謀だったのか?プロセスに無駄があったのか?プロセスに欠陥があったのか?など)。反省点を活かして改善する。
様々な自己啓発書やビジネス書を読んだが、けっきょく、自分に向いているのは科学者のようなやり方だった。もしかしたら、人それぞれ異なるかもしれない。
まあ、色々試してみる事が良いかもしれない。

《ライトノベルの役割》

ボクが読書を本格的に始めた経緯は、学校の昼休みは、教室やその周りがうるさく、外に出る意欲もなかったので、静かで落ち着ける場所を探していたら図書室に出会った事が大きい。
ちょうど図書室と出会う少し前にライトノベルにハマり、文章自体を読む事はあった。しかし、岩波文庫や様々な自己啓発本やビジネス書、小説、科学に関する本などは読んでいなかった。
はじめは図書室でボーとしている事が多かったが、次第に退屈しはじめて、座っていた場所から最も近い本棚から何となく手に取った書籍をパラパラ読んでみると、これがなかなか面白くて、そこから読書にハマった。
まあ、これが皮肉にも学校の教育に関する懐疑的な態度を生み出すキッカケにもなったのだが。池上彰さんの教養や現代史についての書籍やアクティブラーニング、漫画で分かる旧約聖書や新約聖書、仏教などの本はとても面白かった記憶がある。
(ちなみに、その頃はニュースをあまり熱心に見る方ではなかったので、池上彰さんの事について全く知らなかったのだが、後になってニュースを見始めるようになって、池上彰さんの存在を知り、面白かった)
教養やアクティブラーニングについての書籍を読むと、いかに今、自分が受けている教育のレベルが低いか、また、自分の学習についての理解のレベルが低いかを痛感させられた。そこから自学自習というものに興味がひかれ、粗野ながらもアクティブラーニングを楽しむ事にした。
まあ、その後、「独学孤陋」や「亡羊之嘆」などの言葉に強い共感を覚えるような事に繋がっていったのだが。
ここまで振り返ってみると、こうした一連の体験が出来たのは、ライトノベルのおかげだったのではないか?と感じる。
そもそも、自分が本格的に読書にハマるキッカケを作ったのはライトノベルだった。その前にも、学校の国語の授業などで小説や評論などの文章を読む事もあったが、その時は全く何の興味も引かれなかった。それどころが面倒だとさえ感じていた。
ライトノベルがなければ、おそらく文章を読む楽しみとは無縁の生活を送っていたと思う。新聞も読まないだろうし読書もしない生活だってあり得たのだろうと思う。
はじめて読んだライトノベルが「ソードアートオンライン」の一巻であり、本当に感謝している一冊だ。

《芥川賞を読まない人は本好きじゃない?》

ある人の話を聞くと「え?芥川賞を読まないの?それで本好きって言えるの?」と言われて驚いた人がいるらしい。
ボクも芥川賞だからという理由では読まない派なので、その話を聞いて驚いた。
ボクは、ベストセラーや今流行りの本という文言には全く興味がなく、純粋にその時その時に関心のある出来事に関連した本やブラウジング(本棚を漫然と眺めて気になった本を手に取る事)などで読む本を決める派だ。
それゆえに、「芥川賞を読まなければ本好きではない」という意見は斬新で興味深かった。
この意見について思うのは、それは「本が好きなのではなく、芥川賞という権威が好きなのではないか?」という事だ。
どんな本を、どんな目的や手段で取り、どんな風に読むかは、読み手が勝手に決めれば良いのではないかと個人的には思う。

《ネットと紙の本》

ある人は「紙の本でなければ深い思考は身につかない。スマホなどでは時間の浪費になってしまう」という話をしていた。
その話を詳しく聞くと、更にこう続けた「スマホなどは誘惑が多い。SNSで文章を読む事は増えるだろうが、それは短い文な上に、全く無関係なものも多いし、それをじっくり読む気で読んでいないだろう。ただ漠然と読み、娯楽として浪費しているだけだ。それに対して、紙の本は、体系だった内容構成であり、時間をかけて一冊を読むので、集中し、時間を無駄にしないように深く読もうという意欲が湧くだろう。よって紙の本の方がいい」
まあ、この話を聞いて思うのが、それって取り組む姿勢が問題なのであって、ネットよりも紙の本が優っている事とは別なのでは?という事だ。
ネットだって意識すれば長い文章や体系だった内容に触れる事ができる。たとえば、google scholarやJ-Stageなどで検索すれば論文が読める。まさか、論文が体系だった内容とは言えない、とは言わないだろう?
あるいは、読書家のブログなどを閲覧すれば、一冊の書籍から感想や考察などを長文で書いている事もあり、その内容は参考になる事もある。
さらに、様々な機関のホームページを見ると、今注目されている分野や概念は何であるのか?という事を開催されるセミナーのタイトルやレジュメから読み取る事もできる。
このように工夫しだいで有力な情報を検索できるのもネットのメリットだろう。

本のデメリットをあえてあげるのであれば、やはりどうしても内容が古くなりがちという事だろう。出版されるまでの期間で、すでに最先端の事例が変わっている事も珍しくないのだから。
まあ、個人的には、どちらにも魅力を感じているので、両方のメリットを享受すれば良いのではないかと思う。

《嘘の話を読んでどうするの?》

ある人の話を聞くと「本好きと言うと『嘘の話なんて読んでどうするの?そんなの役に立つの?』と言われた」との事だった。
哲学をかじっている身としては「嘘と現実の差は何か?」や「役に立つ事とは何か?」と問いただしたくなる欲求にかられる主張だ。
まず第一に「本は必ずしも嘘だけではない」という反論が考えられる。ノンフィクションの書籍もあれば、国の統計データの載った白書だってある。また、科学の教科書もノンフィクションだろう。
第二の反論として、「嘘の話が役に立つ場合だってある」というものが考えられる。
たとえば、子供に読み聞かせる童話の中には、寓話という人生における教訓を物語として展開しているものもある。
そこではキツネやタヌキなどの登場人物が二足歩行であるいたり、人間のように話したりするのだが、そこでこのような生物はありえない、とこの人は言うのだろうか?
また、本に限らず、嘘が役立つ事もある。たとえば、漫才とは元ネタはあるとはいえ、嘘によってリアルの笑いを引き出す行為といえる。
第三の反論として、「そもそも役立つと思って読書してませんが、何か?」というものだ。
この人はただ読書が好きと言っているだけなのに、なぜか役に立つの?と聞かれている。
それなら、こう逆質問してあげれば良い「あなたがやっている事は全て役に立つ事しかしていないのか?」と。
たとえば、君が聞く音楽は何か役に立っているのか?君が好む高級料理は役に立つのか?君が買うたくさんの服は役に立つのか?など様々な逆質問が考えられる。
(まあ、そもそも本を読む事で楽しんでいるのだから、読書は個人が楽しむという役に立っているのだろうが)

《○○は読書に入らない論》

「○○は読書の内に入らない」というフレーズは度々聞かれる。例えば、「小説は読書の内に入らない」「探偵小説は読書の内に入らない」「SFは読書の内に入らない」「ライトノベルは読書の内に入らない」などがある。また、明治時代では「小説は不良が読むものだ」とも言われていたらしい。
ボクが実際に聞いた例では「漫画は読書の内に入らない」「電子書籍は読書の内に入らない」というものだ。
漫画は、有名なビジネス書を題材にしている事もある。たとえば、「七つの習慣」というビジネス書は、「マンガでわかる七つの習慣」というものがある。
このような例でも、読書の内に入らないのだろうか?もし入らないとしたら、何が問題なのだろうか?文章のみで構成された本と、イラストが主で文章は最低限の説明に留めた本では、一体何が違うのだろう?
絵本だって本の分類ならば、漫画だって本の分類で問題はなさそうに思えるのだが。個人的に不思議な考え方である。
また、より一層不思議に思える主張が「電子書籍は読書の内に入らない」というものだ。これに至っては、表現される媒体が「紙とインク」か「電子」かの違いに過ぎないと思うのだが。本にとって重要なのは、そこに書かれているコンテンツだろうと思うのだが。どのように表現されているのかを気にするとは、まことに不思議だと感じる。

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