見返り
母は良く見返りを求めるなと言っていた。
母自身はとても信仰心が強い。
仲良くなった人がお寺の奥さんで、金蘭を使ったミニポーチを人に配っているのを知って、自分もやりたいと、私に縫製を頼むようになった。
わたしのその行いは徳を積むことだから続けなさいと言われて、結婚して子どもができてからも頼まれて作っていた。
ファスナーが好きだったので、オカダヤに行ってはカラフルなファスナーを買い求め、送られてきた金蘭と色合わせをするのが地味に楽しかった。
母はそれをお茶会などで人に配っては喜ばれていた。
中にはそのお返しにとお菓子をいただいたりすることもあったようだが、ほとんどは与えるだけをしている人だった。
私は母から少し報酬をもらっていたので、それに対する見返りなどは求めたりしなかったけど、母は自分でそう言いながらも時々虚しくなることがあったようで、たまに愚痴をこぼしていた。
大体はもらって当たり前みたいな態度を取られると腹が立ったようだ。
当時はただ話を聞くだけで、そういう気持ちにもなるよなとは思っていたけど、最近になって母の気持ちがほんの少しだけわかるようになった。
きっと私も与えてもらっても当たり前みたいな時はある。
自分が与えようと思ってやったことってあまりないけど、やってることが与えるに値するものはあるのだと思う。
それに対して見返りが欲しいなんて思ったことはなかったけど、与えるってなんだろうと思うことはままある。
お金を出して何かをすることだけが与えてるわけでもないし、こうして言葉に出して書くことも与えることにはなってる。
でもそれが巡り巡って違う形で戻ってきているのだと腹の底からわからないと心は枯渇する。
母もきっとそんな気持ちだったんだろうな。
当たり前のように与えるだけをしてきて、身近にいる家族からのわかりやすい愛を得られなかったからいつも寂しさを抱えていたんだろう。
母が寂しくなった時はいつも気が冷めるという表現をしていた。
それもなんとなくわかる。
親子だから本質的なところは似ているし、刷り込まれてもいるから。
やってもやっても思うような結果が得られなかったりすると気は冷める。
与えるってなんだろうって日々思う。
見返りなんて求めたことなかったけど、今回初めて見返りを求めたくなったんだなって気づいた。
坦々とただ自分ができることやりたいことをやり続けた先にいったい何があるんだろう。
そんなことを考える。
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