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ラポールの形成

 ラポール(papport)とは、フランス語で「架け橋」を意味します。相手を信頼して打ち解けた状態、親密な関係を築くことです。教師と学生には、まずこれが必要です。これがない状態で指導をしても相手に届きません。ましてや、このラポールの形成がない状態で叱っても、反発が起こるだけです。ますます教師と学生の距離が離れます。
 この概念のない教師や指導者が行き過ぎた指導や体罰などをして問題になるのです。ラポールがあれば体罰はいいのか、という訳ではありませんが。
 しかし、私が中高生の頃は体罰、もしくはそれに近いものはありました。中学生のときの英語教師は毎日小テストをして、及第点に行かないと全員前に立たされて端からビンタされました。でも、その英語教師を嫌だと思ったことはありません。ビンタのことを親にも言ってなかったと思います。ひっつの罰ゲームくらいに考えていました。ビンタ回避した日の達成感もありました・笑。それだけ、その教師には信頼と敬愛の気持ちがあったのだと思います。かつては、そういう体罰は当たり前で、問題になり始めた原因は、この「ラポールの形成」がない状態で体罰が行われたときからだと思います。まずは、親が甘やかす(うての子にビンタなんて下品ざます)、子どもがわがままになる(なんでビンタなんかされるんだ)、教師の質が劣る(昔、オレは体罰されてきたからオレにも体罰する権利がある)、という勘違いと負のループ。しかし、この問題の大部分は教師側にあります。学生・生徒との信頼関係を築けない、コミュニケーション能力の低い教師が増えたのです。教師の質は明らかに落ちています。そもそも待遇が悪い、で仕事も多いしストレスもある。で、優秀な人材は他の業種へ流れた。人も打算的に変わっています。コスパとかタイパとか、パフォーマンスやROI(投資収益率)の概念が広く入ってきました。結局、自分は損してるか得してるか、しか考えない人種が増えたのです。あ、またいつものような(もう日本は終わった)論調になってしまいました。すみません。

 とにかく、人にものを教える人間は、もちろん敬意を持たれなければ教授という作業が成立しません。そして、同じくらいに大切なのがこの「ラポールの形成」、この概念の中には信頼や親密の意味もありますが、人間としての真摯さとかフェアネスとか品位などの概念もあると思います。このすべてを備えた教師が無理なら、教授する人、生活指導をする人、コーディネーター的立場の人、など教育現場で役割分担をするしかありません。政治家のどなたかも仰っていましたが、教員免許を持たない(持ってたってこの有様ですから)、講師制を導入して行政や民間から広く先生を募るしかありません。これは急務です。早晩、学校は崩壊します。崩壊しつつある。。。
 

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