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プロレスブームを待ち受ける岐路

2014年もまもなく終わる。大晦日に格闘技番組の地上波放送があったのはいつ頃までだったか。

「猪木祭2003」の狂騒が懐かしい。日テレでの放送時間終了後、百八つの除夜の鐘ならぬ闘魂ビンタ待ちの観客がリングに殺到。猪木を中心とした芋洗いのような映像が衝撃だった。

あの大晦日、他局ではTBSがK-1、フジテレビがPRIDEを放映。ホント菊地成孔氏の著書じゃないが、「あなたの前の彼女だって、むかしはヒョードルだのミルコだの言っていた」時代があったのだ。

そしていま、プロレスブームである。ぼくのところにも、ここ数ヵ月で3誌から女子プロ人気を切り口としたプロレス特集をやりたい、という相談があった。その火種が新日本プロレスの快進撃であることは間違いない。

ちょうどこの原稿が世に出る頃、衆院総選挙があるが、リングにはなんの影響も及ぼさないだろう。もちろんそれで問題ない。WWEはよく時の政治をギミックとしてリング上の抗争に持ち込むが、あれはディベート技術が教育のベースにある国であればこそ楽しめるエンターテインメントだ。

ただ、平成初期の格闘技ブームを横目で見ながら、プロレスが、かつて猪木らを駆り立てた「対世間」というテーマに背を向け、箱庭に籠もり、その中での完成度上げに邁進しているように見えるのは気になる。そのことで、プロレスの持つ、演劇ともスポーツとも異なる特殊なライブ性(それをもっとも体現していたのが猪木と前田だ)は失われつつあるのではないか。

批評家フィリップ・オースランダーの言葉を借りるなら、「ライブ・イベントそのものがいまやメディア化の要請に応じてつくられている。(中略)ライブ・パフォーマンスはメディア化されたパフォーマンスを真似ることで、メディアによって屈折した自分自身の二流の娯楽品となって」しまう。プロレスも、まんまとこの軌跡をたどっているような気がしてならないのだ。

11月に開催された国際演劇祭「フェスティバル/トーキョー」で、2010年に49歳で他界したクリストフ・シュリンゲンジーフの特集上映があった。常に世間を挑発しながら、政治と芸術のきわきわのラインを走り抜けたドイツの芸術家だ。

中でも今回上映された『外国人よ、出ていけ!』は過激だった。2000年、ウィーン芸術週間の一環として展示された彼のインスタレーション作品「オーストリアを愛してね!」に密着取材したドキュメンタリー映画である。

当時のオーストリアは、与党である国民党が、外国人排斥を掲げる極右政党の自由党と連立を組むことで政権を維持していた。そんな社会情勢を背景に、隣国ドイツからやってきたシュリンゲンジーフは、公道の真ん中に移民の強制収容所を模したコンテナを設置。そこに12人の移民を住まわせ、ウェブサイトで生中継する。さらに、ネット投票によって、毎晩そのうち2人の移民が国外に強制退去されていくという仕組みを載せる。これを6日間にわたって続け、最後に残った1人に賞金と国籍獲得のチャンスを与える、という作品だ。

なおコンテナは、移民に対するヘイトの感情に溢れたスローガンの数々で飾られているが、それらはすべて連立政権の一翼を担う自由党のアジビラや大衆紙から引用されたものである。

本当にネット投票のシステムが機能しているのかは、正直この映像だけではわからない(まさにプロレス的虚実皮膜だ)。だが、たしかに群衆が見守る中、毎日2人の移民が強制退去させられていく。その後ろ姿にスピーカーを通じてシュリンゲンジーフの実況が加わる。

「おおっとオーストリア国民、本日もアフリカ系移民を選びました! 2日連続で手堅いチョイスです!」

いや、まあ怒りますよね。ましてや芸術を愛するウィーン市民、怒ったなんてもんじゃなかった。シュリンゲンジーフを吊せ!! コンテナを壊せ!! とばかりに広場は暴動状態。ヒッピー系の左翼デモは実際にコンテナに襲撃をかける。放火騒ぎもあったようだ。

そんな混乱の渦中、シュリンゲンジーフはがんがん生身を晒し、一人ひとりつかまえては激論を交わしていく。言うなれば、田原総一郎とテリー伊藤を掛け合わせたようなアジテーションモンスターだ。

シュリンゲンジーフに向かって「こんなひどいことはしないで!」と泣きつく老婆は、さらにこう叫ぶ。

「移民はいさせて! そして、ドイツ人芸術家は出ていけ!」

博愛と愛国とレイシズムとリベラリズムと政治と芸術と怒りと平和、あらゆる矛盾に引き裂かれながら、人びとのすさまじいエネルギーが渦を巻いている。荒れる若者にトラメガを預け、自身への批判も、政治的主張も叫ばせると、即座に反論を加えながら議論を拾い上げていくシュリンゲンジーフの姿が、芋洗い状態のリング上で、次々に目の前の若者にビンタを繰り返していく「2003年のアントニオ猪木」とも重なった。

再度確認するが、このコンテナに飾られた排外主義的な文言は政権サイドに就いている自由党のスローガンである。やや引いた視線から見れば、広場に充満するエネルギーはそのまま政権へのカウンター運動へともつながりうる。途中からその真価を理解し、作品を評価しようというメディアも出てくるが、当のシュリンゲンジーフは「これは単なるアートでしかない」と、いたってクールである。

最終日、シュリンゲンジーフ本人が国外退去になるというオチをもって、作品は幕を下ろす。政治的なパフォーマンスではなかった。それは、人々の身体に眠る〈政治性〉を引き出す装置だった。

かつて、ビートたけし率いるTPGに拒絶を示し、UWFの行方に口角泡を飛ばしまくっていたプロレス者たちもまた、リング上の出来事を自らの身体感覚で捉え、解釈し、介入し、関係を組み替えていくアクチュアルな政治性を握っていた。おそらくそれは、路上でなにか不正を見かけたらいてもたってもいられず身体が動くようなおせっかいがまだ存在していた、昭和という時代とも関係している。

いまはどうだろう? 介入よりは、スマホのカメラで撮って、あとでSNSであーだこーだ言う作法が普通なのかもしれない。

でも、そんな時代だからこそ、SNSのタイムラインを強引に社会へと接続するマッスル坂井総監督の『劇場版プロレス・キャノンボール2014』のような試みは、業界全体から見れば小さなものだろうが、ぼくにはノアの箱船のようにも思える。

プロレスは「ちょっと刺激的な闘う劇団四季」みたいな位置づけで高所安定してしまっていいのだろうか。

問われているのは団体ではない。むしろ個々のレスラーの意識であり、メディアの批評言語であり、観客の身体だ。わりと岐路のような気がしている。

(初出:「KAMINOGE」2014年12月号、拙著『メモリースティック』所収)

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