アッカーマンはヒューマニスト

別冊少年マガジン5月号の「フルカラー連載3回」は「諫山先生セレクト話」で、

なんと、「第69話 友人」だった。

これは嬉しい! 知人から「作者の推しはジャン」だと聞いた時と同様に嬉しい。

「ですよね~~~っ!!」と叫びたい。

私にとってこの回は「神回」。
名言豊富な進撃の中でも、この回はほんと名言しかない。

いちばんシビれたのはケニーの最期のセリフ「俺…は… 人の…親には… なれねぇよ」。

ずっと親をやっていくのってね~、ほんま大変で…(経験者)

ケニーは自分のこと「クズ」だって自覚してるしね。(うん!ずっと「ただの」クズだと思ってたよ!)

そんなクズの俺が、っていう、彼の真面目さ?謙虚さ?責任感が感じられもする…

あ、既視感。これ、何年か前、単行本で読んだ時に同じようなこと書いてるわ。

だから、この辺にしとく。私に親子関係語らせたら終わらなくなる。

初対面の時、リヴァイは名前を聞かれ「…リヴァイ …ただのリヴァイ」と答えた。

そして最期の場面、リヴァイに「あんた… 本当は… 母さんの何だ?」と問われ、ケニーは「ハッ バカが… ただの… 兄貴だ…」と答える。

「ただの」という言葉は、それぞれに深い意味を持つ。

<初対面>

「ただのリヴァイ」という返事を聞いたケニーは背中を壁に預け、脱力してずるずると崩れ落ち、床に尻餅をついた格好になる。

ずるずると崩れながらケニーは言った。「そうか… クシェル そりゃ確かに… 名乗る価値もねぇよな…」と。

アッカーマン家に生まれたせいで困窮、売春婦に身をやつし、性病をうつされて死んだ妹… 自分がもう少し早く来ていれば救えたかもしれない妹。その変わり果てた亡骸に向けての言葉。

そして、その妹が産むと言って聞かなかった「客の子」リヴァイ、「ただのリヴァイ」だと教えられて育った甥にはうつむいたたまま、目も合わさずに、こう言うのだ。

「俺はケニー… …ただのケニーだ クシェルとは… …知り合いだった よろしくな」

我が子にアッカーマンのアの字でさえ伝えなかったクシェルの遺志を尊重するしかない…
ってか、遺志に逆らう気力もない、といったところか。
(そのままリヴァイに何も告げずに「身の振り方」と「ナイフの振り方」を教え、ある日突然姿を消すわけだが。)

  

<最期の場面>
「俺の姓もアッカーマンらしいな? あんた… 本当は… 母さんの何だ?」

おそらくケニーは、リヴァイの質問に「もしかして父親なのでは!?」という疑念があるのを感じ取ったのだろう。それで、「父親?そんな大層なもんじゃねーよ」という意味を込めて「ハッ バカが… ただの… 兄貴だ…」と言ったのだと思った。

父親ってのは、大なり小なりの覚悟を持ってなるもの、一方、兄貴なんてのは、何の覚悟がなくてもなれる、おまけに、結局は何ひとつクシェルのためになるようなことをしてやれなかった… そういう思いが込められているような気がする。

ケニーはこんなふうに、実は妹思いだったし、その遺児であるリヴァイに対しても彼特有の独特の愛情を持っていた。それはだいぶ、ふつーの愛情とは異なる形なので… 自分たちの「夢」の実現のために平気で本気でリヴァイを殺そうとしちゃうわけなんだけど、うん。そりゃあね、クズっちゃあクズ。


いやぁ、この作品、クズだらけです。エルヴィンだってね、憲兵や駐屯兵を巨人のエサにするわ、新兵に特攻させるわ。「何らかの目的のために、わりかし平気でたくさん殺しまくる奴」がクズ認定されるとすれば(ゲバラもクズ中のクズで)、進撃においても、ジーク、フクロウ、ガビ、イェレナ… 枚挙に暇がない。

長いあいだ読者にとって「頭が回って恐ろしく強い、冷酷でイイ加減な性格のクズ野郎」に見えたケニーは、死ぬ前に、「俺が…見てきた奴ら…」に対して、「共感はできずとも理解できるような気がする」という心理状態に達したのだ。

「共感できないけど理解しよう」ってな言い方、最近よく聞くけど、諫山さんは本当に言葉の使い方が上手い。(←これ、今後、進撃の感想を語る場面において何度でも言うよ。)

「奴とは最後まで同じ気分にはなれなかったが」というケニーのセリフは、もちろん「共感できないけど」ってことで…
同じ気分には到底なれないけど、でも、考えてみれば(相手の立場に立ってみれば)、ああ、なるほどそういうことなんだろうな~と一定の理解は可能。
ってな心境ですよね。

酒、女、神様、一族、王様、夢、子供、力(これはケニー自身)


「みんな何かに酔っ払ってねぇと やってらんなかったんだな…」

うんうん、もう、これも私にとっては神のようなセリフだ。だって、ねー、「みんな」そうでしょ? ケニーの周りの人間に限ったことじゃない。私の周りもみんなそうだよ、私自身を含め。みんな何かに酔っ払ってないとやっていけない、それが人生だと、私は思う。ちなみに、私の場合は「子供」か。

何かを考える、ケニーの深いまなざし…
という一コマのあと、セリフは続く。「みんな…何かの奴隷だった… あいつでさえも…」

「あいつ」というのは、ウーリ。この回のタイトルにもなっている、ケニーの「友人」。あ、「友人」という言葉を使ったのはウーリの方だね。少なくとも二人の会話の中では。
ケニーは、「『友人』とやらに」と言ってる。こういう感じで「言葉へのこだわり」が常にすごすぎる!(ボキャ貧…)
(言葉へのこだわり、その他、作者の「細部への徹底したこだわり」への絶賛はまたの機会に~)


あああああ、奴隷。みんな、何かの奴隷。

みんな自由ではない。


はい、「進撃の巨人」という作品に流れる壮大なテーマ、ですね。

「奴隷」ってのは言い過ぎ、「誰もが完全には自由たりえない」のは当然、みんなそれぞれ時には何かに酔っ払って、大抵イヤなこと我慢しながら、不自由なりに、そこそこ自由な人生送ってんじゃん? って話じゃなくて、「自由を求めて突き進んだ人々の決死の闘い」を11年7ヶ月ものあいだ丁寧に丁寧に描いてきたのが、この作品。

だと思ってます。

自由。
これ、私の人生の中でも、かなり重要度の高い、かつ難しいテーマなんで、はい、シビれます。酔っ払います(笑)

「夢」に酔っ払って自分についてきた部下たちが崩落する地下神殿に潰される、という回想シーン。ケニーのセリフに「知りてぇ… 一体どんな気分なんだ? そこから一体どんな景色が見える?」というのがある。
……まったく、身震いしちゃうよ。これ、エレンとそっくりだよね。

自由への渇望。

知りたいのは「気分」… 見たいのは「景色」…
こんなとこにも(最終話は139話で、これは69話だよ、メインキャラではないケニーの話だよ)伏線巡らされていたとは…!!!

あ、そうだ。69話でケニーが知りたいと思ったのは、ウーリの気分。
「この世でいちばん偉い=強い」奴の気分。

「神にも等しい力」を手にした奴の気分。

ケニーは知らなかった、壁の外の世界のことを。
エレンは知った、壁の外がどんな世界かを。

だから、ケニーが見たいと思ったものと、エレンが見たいと思ったものは、実は違うものだ。

エレンが見たい(「見たかった」だね、もう…)のは、「誰も見たことがない景色」…

このあと、ケニーがリヴァイに問う、「お前は何だ!?英雄か!?」、そして、ミカサのこと、って書きたかったんだけど…

続きは明日にしようかな。

ほな、また明日!

明日? 明日ほんまに書けるん?
うん、書かんとな~、いつまでたっても最終話が読めん…(笑)

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