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DANCE WITH ME【小説】

とても疲れていた。
仕事を終えまっすぐ家に帰った私は、そのまま母の顔も見ずに自分の部屋へと向かってしまった。
一段また一段と、階段を上がるその足も鉛のように重く感じられた。
ただただ横になりたかった。
このまま寝てしまおう。電気もつけずにカバンを放り出しベッドに倒れ込む。
いつもは布団に入ると妙に頭が冴えてしまい、あれこれ考えが止まらず眠れなくなるのに。
その日はあっという間に眠りに落ちていった。

どれくらい眠っていたのか、
気配を感じた私は薄目を開けた。
母が様子でも見にきたのか、はたまた猫のさくらが入ってきたのか。
階段の踊り場の明かりがついたままらしい。
真っ暗な部屋に、暖かなオレンジ色の光の筋が細くまっすぐに伸びている。
その明かりを受けて何かが動いた。
さくらだな‥と思った瞬間、また私は夢の中へと引き戻された。

カーテンから差し込む強く眩しい光で目が覚めた。
伸びをしながら思わず「あ〜‥よく寝た。」と呟く。
今日は何の予定もない土曜日。
時計を見ると9時を回っていた。
もう少しゴロゴロしていたい気もしたが、さすがに何か食べたくなったので下へ降りることにした。

父も母もいなかった。
そういえば今日は二人で映画を観にいくと言っていたっけ。食卓には母の手書きのメモが置いてあった。
「はるかへ。昨夜のごはんが冷蔵庫にあります。夜には帰るからね!」と書かれたその横に、母がいつも書く顔文字が満面の笑みを振りまいている。
うちの母はいつも機嫌がいい。私が口ごたえををしようが悪態をつこうが、いつも笑っている。
母親の機嫌がいいと家の中が明るくなると聞いたことがあるが、一年365日ずっとニコニコされるのもそれはそれで疲れる時があるというのが本音だ。

さくらは私が起きてきても知らん顔で、
道路に面した大きな掃き出し窓いっぱいに降り注ぐ春の日差しを浴びながら、お気に入りの座布団の上で気持ちよさそうに目をつむっていた。

冷蔵庫から筑前煮を取り出しレンジで温めているあいだ、昨日の出来事をつい思い出してしまう。

カウンターに座りながら隣の窓口にいる後輩と、最近できた美味しいイタリアンの店の話でつい盛り上がった時のことだ。
地元の信用金庫に勤めて2年、
3年目を迎え仕事が楽しいと思うことはなかったものの、不満もとくにはなかった。
ただ一つを除けば。

「ドルチェプレートがマジでやばかったんだって!」と私が言ったすぐ後で、後方から咳払いが聞こえた。チラッと振り向くと、後方事務担当の杉本さんが私に向かって人差し指を口にあてる仕草をした。

盛り上がったとはいえフロア中に響き渡るほどではもちろんなかったし、確かに営業時間中ではあったけれど仕事中の私語が禁止されているわけでもない。お客さんも途切れた瞬間だったし職場の人間しかいなかった。話していた後輩が気まずそうな顔をし、そのまま会話は立ち消えとなった。

15時を過ぎてシャッターが降りる時間となった。
さらに嫌なことは続くもので、集計作業をしていたところ伝票が一枚足りないことが発覚した。
全員がそれぞれの引き出しの中や床の上、ファイルの中まで全てに目を通す。
顧客スペースのフロアにも出てゴミ箱はもちろんのこと、記帳台に床の上‥すべて探したが見つからない。
どの伝票が足りないのかを炙り出すため、その日すべての入金伝票と出金伝票を照らし合わせて調べてみることになった。やがて行方知れずの伝票の正体が判明する。
私が午前中に処理をした顧客の出金伝票だった。時々お金を下ろしにやってくる、上品だがどこか浮世離れした感じの70代の奥さんだ。
その時の記憶を必死で辿ってみるも、まったく覚えがない。これ以上は打つ手なしとなり、上司がその方へ電話をかけ伝票を間違えて返していないか確認することになった。
これで見つからなければ万策尽き果ててしまう。
その場にいる全員の祈りが届いたのか、電話口からは呑気な声で「あぁ、そういえばお金と一緒にもらいましたよ〜。」の返事が。
全員が胸を撫で下ろし、やっと帰れるといった安堵の表情で徐々に身のまわりを片付け始めた。
急いで上司と共に伝票を回収しに行き、「大事なものだったなんて知らなくて御免なさいねぇ。」と逆に謝られ事なきを得たのだった。

伝票も無事に店舗へと戻り、全員に頭を下げ謝罪して回る。「災難だったねぇ。」と皆んな優しく慰めてくれた。時計を見るともうじき20時だった。
なおさら申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
杉本さんにも謝罪とお礼を言うために近づくと、ろくに私の目も見ずに「どういたしまして。」とだけ返事をされてしまい更に落ち込んだ。

温め終了を告げる電子レンジのメロディで我にかえる。が、席を立つ気になれない。
さらに私の思考は過去へと遡る。

あれは会社に入りたての頃のことだ。
終業時間に急な雨が降り、居合わせた杉本さんから傘を借りたことがある。
「私もう一本あるから、これ岡田さん使って。」
いつもにこやかだけど、なぜか目だけ笑っていない気がする杉本さんのことが私は何となく苦手だった。そんな杉本さんが傘を貸してくれた。
先入観で決めつけ、勝手に距離をおこうとしていたこれまでの自分を恥ずかしく思った。
杉本さんの親切がとても嬉しくて、そのまま百貨店へ出向きお礼のハンカチを買って帰ることにした。

私より2年先輩の杉本さんは、落ち着いた雰囲気に見えるけれど話し上手で社交的。切れ長の目に薄い唇、細いあご先、上品な美人タイプ。ほっそりとした体型で、私からすればまさに大人の女性という感じだ。
杉本さんに似合いそうな色はどれだろう、喜んでもらえそうなデザインはどんなだろう‥。
我ながらセンスいいかも!と思えるまで、じっくりと選ぶ時間も楽しかった。

翌朝、丁寧に乾かした傘にハンカチを添えて手渡すと杉本さんは驚いて
「傘を貸しただけよ〜!こんなことしてもらっちゃったら悪いじゃない。」と恐縮してくれた。
本当に助かりましたと伝え、杉本さんとの距離がこれで少し縮まったような気がして嬉しかった。

その日の昼休みまでは。

うちの会社には、食堂の隣に小さな和室がある。
昔からそこは女子行員だけが集える休憩室として利用されていた。みんなでお金を出し合って買ったコーヒーやお菓子で、時間いっぱいまで過ごすのが習わしなのだ。

その日も、お弁当を食べ終えた私は和室へと移動した。襖を開けようとしたその時、中から杉本さんの声がした。「傘を貸しただけでブランドのハンカチ渡してくる岡田さんってどうなの?逆に嫌味じゃな〜い⁈」
襖に掛けていた手をそっと外し、音を立てないようにその場を去った。

それからというもの、顔に貼り付けたような杉本さんの笑顔を見ると下腹の奥の方がザワザワする。
杉本さんの気配が私をイライラとさせる。
他の人に振りまくわざとらしい愛想の良さも、離れたところから聞こえてくる少し語尾を上げた話し方も何もかも。

向こうも私のことが嫌いだろうけど。
苦々しい思いが口の中いっぱに広がる気がした。

レンジから再び電子音が聞こえた。ようやく立ち上がりかけた時、少し離れたところで何かが動いた。ちょうどテレビの後ろのあたり‥。
さくらは座布団の上で眠ったままだ。
そのまま中腰で動けずにいると、テレビの陰から何かがヒョコヒョコ動きながら出てきた。

ちいさな、おっさんだった。
‥そう、ちっさいおっさんがステップを踏んだり腰を振ったりしているのだった。
「え。」と思わず声に出してしまう。
すると向こうは「お。」と言った。
以前、ちっさいおっさんを見たことがあると知り合いから聞かされた時に教わった通りだ。
まず、日本人である。
駅前を歩いている、そこらへんのおっさんだ。
違うのはサイズだけ。
どうやら踊っていたらしいそのちっさいおっさんは動きを止めると照れることもなく
「初めまして、やな。」と言い、テレビ台からひょいと飛び降りた。

驚きが大きすぎると何もできない。
椅子から動くことも。
その後の言葉が続かずにいる私に向かって、ちっさいおっさんは言った。
「なんや、今ごろ朝ごはんかいな。そういうたら昨夜はよう寝とったなぁ。あんまり寝てばっかりいたら目ぇ腐るで。」

「関西弁。」
最初の感想がそれかと自分でも思いながら、もう一度言わずにはいられなかった。
「関西弁。」
そこでやっと椅子に座ることができた。
目の前にいるのは確かにちっさいおっさんだ。
「‥知らんがな。ていうか、ちゃんとワシのこと見えるんやな、自分。よかったわ。」
私いま‥ちっさいおっさんを見ている‥。
一度見てみたいと思っていたけれど、まさかこんな白昼堂々?しかもめっちゃ喋る。
昨夜のあれはちっさいおっさんだったのか‥。
「あ、チン終わったんちゃうのん、はよ食べや。」
ちっさいおっさんに言われるままに私は筑前煮を取り出し、ちっさいおっさんに見守られながら食べ始める。まだ夢の中だったりする?夢オチ?
ちっさいおっさんは、筑前煮を食べる私に尋ねてきた。
「なんや悩みごとでもあんのとちゃうのん?ワシでよかったら聞いたるで。」
「え、わかるの?」
「当たり前やがな、誰やと思てるねん。」
「ちっさいおっさん‥」
「ちっさいおっさんって何やねん。」
「ごめん。え、じゃあなんて呼べばいいの?」
「せやな〜‥えいちゃんかな。」
「へぇ‥名前あるんだ。なんて名前?」
「ちゃうちゃう、名前なんかあるかいな。えいちゃんいうたら、ロックだぜ!のえいちゃんやんか。」
「ごめん‥わかんないや。」
「そうか‥ジェネレーションギャップっちゅうやつやな。まぁええわ。」
なんとなく会話が弾んでいる気がして変な気分になる。

「で、なに悩んでんのん。」
これまで誰にも言わなかったけど、
ちっさいおっさんになら話してみてもいいかなという気がしてきて、私は杉本さんとのエピソードを最初から話して聞かせた。

食卓の上に移動したちっさいおっさんは、
あぐらをかいたまま私の話を黙って最後まで聞いてくれた。意外に懐の大きい人かもしれない。
ちっさいけど。
「そうかぁ‥。まぁな、自分の気持ちもわかるけどな。せやけど、良い悪いの問題ではないねんなぁ。」
「なんでよ。陰口がいいわけないじゃん。」
「そらそやけどな。でもどちらが正しくてどちらが正しくないとか、向こうが悪くて私は悪くない、とかいうんは自分の主観でしかないねんな〜。」
「いや、どう考えても他の人にあんな風に話すなんてひどいでしょ。」
「まぁな。せやけどその杉本っちゅう人にも、そうする権利があるからな。」
「権利?」
「そや。その人がそうである権利や。あの人はひどいとか、あの人は優しいとか。そんなん見る人によって変わることもあるやろ?良い悪いとちゃうねん。」
ちっさいおっさんの話すことは、わかるようなわからないような‥。言いたいことは伝わる気もするけど、でも陰口なんてやっぱり納得できない。

「あとな、その杉本さんに指でシッてされた時めっちゃ腹たったんやろ?なんで腹たったんやと思う?」
「なんでって‥。だって、そこまで大きな声でもなかったと思うし、お客さんもいない時だったから誰かに迷惑かけたわけでもないのに‥。皆んながいる前であんな風にしなくてもいいじゃん。」
「ほんなら、同じことを他の人にされてたらどう思た?同じようにムカついたか?」
「‥‥わかんないけど‥そこまででは、ないかも。」
「杉本さんのこと嫌いって思うのは、杉本さんを好き言うてんのと同じちゃう?いっつも杉本さんのこと考えてるのと違うか〜?」
ちっさいおっさんは笑いながら言った。
‥なんかムカつく。
ムカつくけど、言われてみれば確かにそうかも。
嫌い嫌いって思いながら、ずっと杉本さんのこと考えてたんだもんな、私。
「今回のことに対して腹を立ててると自分では思てるやろうけど、実は過去の感情を取り出してきて反芻してるだけなんやで。わざわざ嫌な気持ちを引っ張り出してきて追体験しとるんや。」
なんだか話が小難しくなってきたけれど、
ちっさいおっさんの言いたいことは、なんとなくわかる。
「過去にあった嫌なことをいつまでも思い出して嫌な気持ちになっても、な〜んもええことないで。あんな、教えたるわ。終わったことを思い出してはクヨクヨ悩み、起こってもいない先のこと心配してはクヨクヨ悩む。結局ずーっと悩んどる。そんなことしてるん人間だけやからな。」

それはめちゃくちゃ納得できる。杉本さんに対して裏切られたような気持ちと恥をかかされたような気持ちになって、それを何度も反芻しては嫌な気持ちになっていた。
これからも杉本さんのことを嫌い嫌いって思いながら仕事するんだろうなって考えては、どんどん気持ちが滅入るばかりだった‥。
「嫌いな人のこと考えるために自分の時間使うんは勿体無いで。どうせなら楽しいこと、ワクワクすること考えたほうが自分のためや。」
気づくと、ちっさいおっさんは立ち上がっていた。
「さて、そろそろ行くとするかな。ほな、また来るわな。」
「え‥あ、うん。」
「せや、最後にええこと教えたろ。魔法の言葉やで。」
ちっさいおっさんはそう言うと、少しの間をあけて
「‥それはな、ありがとうや。」と言った。
少し拍子抜けして
「なんか普通だね。」と返すと、
「何いうてんの、その普通がなかなか出来てへんのが自分ら人間やろ?ありがとうはな、何回言うてもええねん。ええことあったから言うんと違うで。自分から率先して気持ちを込めて言うんやで。」と言われてしまった。
わかったと頷く私を見届けてちっさいおっさんは、おっさんのくせに軽快な身のこなしで食卓から飛び降りた。ふと思いついて質問してみた。
「ひとつ聞いていい?」
「なんや?」
「さっきなんで踊ってたの?」
「チンが終わった時の音楽やん。あれ好きやねん。あと、風呂わいた時のやつもええな!」

「ほんならまた!」と言いながら大きな掃き出し窓のほうへと走っていく。
さくらの前を通り過ぎる時、一瞬だけさくらは薄目を開けたがそのままおっさんを見送った。
もしかして、さくらはおっさんに会うの初めてじゃないんだろうか。
窓は閉まっているはずなのに、ちっさいおっさんはまるで光に溶けてゆくかのように消えてしまい見えなくなった。

レンジとお風呂のメロディで踊るちっさいおっさん‥。お皿に残った筍とこんにゃくを見つめた。

夜になり、父と母が帰ってきた。
晩御飯はデパ地下のお弁当だった。
父と母はとても仲良しで喧嘩をしているところを見たことがない。険悪な雰囲気だったこともない。もちろん子供の私が知らないところではそれなりに色々あったのかもしれないが、友達の両親の話からしても、うちの親は同世代の夫婦の中では珍しいほどいつも一緒にいる。

周りからは、両親の仲の良さを羨ましがられることが多いのだが、実際ここまで仲良しだと子供としては悩みを打ち明けにくいという欠点もある。
あまりに二人が満ち足りていると、例えば杉本さんのことにしても相談する気にはなかなかなれないものだ。人間の中の醜く汚い感情とは無縁の、いつも幸せそうな人に自分の悩み相談なんかする気になれないのと同じだ。

映画の感想やストーリーを嬉しそうに報告してくる母の話をひと通り聞き終えると、その日も早めに布団に入った。
布団の中でちっさいおっさんのことを考えた。杉本さんのことも考えた。
ちっさいおっさん、また来るって言ってたけど次はいつ来るんだろうか。
いや、そもそも本当にちっさいおっさんだったのかな。疲れてたから自分の妄想だったりして。
でも、ちっさいおっさんに言われたことははっきり思い出せる。月曜日からはできるだけ杉本さんのこと気にしない自分になってみよう。
やはりその日は布団の中で何度も寝返りをうち、いっそ起きてしまおうかと思い始めた頃にようやく眠れたようだった。

月曜日の朝、なんとなく落ち着かなくて普段より一本早い電車に乗った。
乗る電車が変わると、当然ながら居合わせる顔ぶれもいつもと違う。
皆んなすました顔で乗ってるけれど、
それぞれ悩みやトラブルを抱えながらここにいるのかもしれないなぁと、見慣れない車内の顔ぶれを眺めながら思った。

会社に着きロッカールームで杉本さんが視界に入った途端やはり胃がきゅっと縮こまる感じがしたけれど、努めて普段より元気でいるよう心がけて過ごした。ちっさいおっさんの忠告通り、ありがとうを意識的に言うようにもした。

そうして二日過ぎ、三日たってもちっさいおっさんは現れなかった。やっぱり幻覚か何かだったのかと思い始めた木曜日の夜、ようやくちっさいおっさんは現れた。

布団に入ったもののまたしても眠りにつけずにいると、机の上の本に何かが当たる音がした。
驚いて起き上がると、黒い影。
明かりをつけると、ちっさいおっさんが脛を押さえてうずくまっている。
「‥いっ‥たたたぁぁ‥!自分、読みもせんのに本出しっぱなしにせんときぃな〜‥いったいわぁ〜マジで。」

とんだ言いがかりだ。
机の上に置くのは私の自由だし、本もちゃんと読んでいる。

もう来ないのかと思ったと言うと、
「これでもまぁまぁ忙しいのよ。」と得意げに言う。どこかの誰かも、このちっさいおっさんと会話してるんだろうか。

「で、どうなん?杉本さんとはその後。」
「別に何もないけど‥。まぁ嫌なこともない、かな。」
「ほな良かったがな〜。自分が気にせえへんかったらホンマに杉本さんのことはどうでもようなるわ。大丈夫、大丈夫。」

まぁ、確かにそうかもしれない。
これまでは杉本さんが誰かと話しているのを見ただけで、また自分の悪口を言われているのかもしれないと勝手に決めつけていたところはある。

「自分の周りにいる人たちはな、自分の内面を映し出す鏡みたいなもんやからな。」
ちっさいおっさんは机の上の、
さっき自分が躓いた本の上に胡座をかきながら話し始めた。

「この世の全てのものは分子でできとるっていうんは知ってる?その分子は原子でできとる。原子には原子核があって、その周りを電子が周回しとる。そうやってどんどんミクロの世界になっていくとやな、すべてのもんは素粒子で出来とるんや。自分も杉本さんも、自分のおとんもおかんも。あの猫もや。それだけやないで、ワシが躓いたこの本も机もベッドもぜーんぶや。」

明らかに私が変な顔をしていたのだろう。
ちっさいおっさんは不本意そうな顔をした。
「このおっさんなに言うてんのって思ってるやろ。」
「‥思ってる。」と半笑いで答えると、
「なんも変な話とちゃうで、科学でちゃんと証明されてることやからな。」
「あぁ‥はい。」
「素粒子はな、常に振動しとるんや。でな、似たような振動数のものを引き寄せ合うっちゅう性質を持っとるねん。」

「類は友を呼ぶ‥みたいだね。」
「おっ!それそれ!それやがな〜。それ今から言おう思てたんやで〜。」私の反応が良くなったので、ちっさいおっさんも嬉しそうだ。

「自分と自分以外の人間を、まぁ当たり前やけど皆んな分けて考えるわな。せやけど、元を辿ればみーんな素粒子の集まりや。」
なんか壮大な話になってきてる気がする。
あ、ミクロの話だから逆?

「ほんでな、自分が機嫌ようしとったら自分の振動数は楽しいもんになるねん。そしたら同じ振動数の人と繋がれて結果、ホンマに毎日たのしなってくるというわけやな。めっちゃ意地悪なグループにめっちゃ優しい人ってあんまりおらんやろ?自分が心地いいと思える人と繋がるには、まず自分が心地いい状態でいることが先や。嫌いな人のこと考えてイライラしとったら自分の振動数、つまり周波数もそこに合わせてしまうことになる。‥わかる?」
「うん、だいたいは。じゃあさ、きっと杉本さんの振動数と私の振動数は違うのかもしれないな。」
「そうかもしれんな。せやけど、ほんならもうわざわざ自分から関わりにいくことないやんか。」
「うん‥まぁ確かに。そういうことになるね。」

ちっさいおっさんはうんうん、よしよしと満足そうに頷くと本の上で立ち上がり
「ほな、そろそろ行くとするかな。」と言うと、さっき強打した足を少しかばいつつ立ち上がってから机へ降り、机から椅子、椅子から床へと注意深く降りていった。
「また来るんだよね?」と聞くと「また来るで。」とおっさんは言い、さくらの出入りのために開けてあるドアの隙間から出て行った。
この前は窓に溶けるように消えて出て行ったのに、今日はわざわざ階段を降りて出ていくのだろうか?
窓はすり抜けられても、2階からいきなり外へ出るのは無理なのかな?小さい体だしな。
一人になった後も、やはりなかなか寝付けなかった。


その週末は、幼馴染みの三恵子とランチの約束をしていた。待ち合わせ場所にやってきた三恵子は、なんだかとても綺麗になった気がする。
そう言うと「寝不足で肌なんか最悪だよ〜。」と顔の前で手を振った。
幼稚園、小学校と仲が良かった美恵子は二年前に結婚し、先々月ママになった。
公務員の旦那さんはとても優しく、
「子供のことは僕に任せて、ゆっくり楽しんでおいで。」と送り出してくれたという。
「私も早く仕事に復帰したい。家で子供と二人っきりだと、社会から断絶されてる感が半端ないんだよね。」と三恵子は言う。
私からすれば、贅沢な悩みだなと思うけれど。
「はるかは?最近どうなの?」と聞かれたけど、三恵子は超がつくほど現実主義者なので、ちっさいおっさんのことはとてもじゃないが言えない。
よくよく考えてみると、誰にでも見える訳ではない、言ってみれば目に見えない存在であるはずのちっさいおっさんの口から、素粒子がどうのこうのと科学の話を聞かされたとは。なんだかおかしな話だなと思った。

また今度うちに遊びにおいでよと三恵子に言われ、近いうちに必ずと約束をした。まだ明るいうちに家に帰りベッドでスマホをいじっていると、
「暇があったら皆んなそれ触りよんなぁ。依存症やん、まじで。」と声がした。
窓枠にちっさいおっさんが腰掛けている。
どこから入ってきたの?と聞くと、「ここの窓やけど?なんで?」と聞き返してきた。
二階から直接出入りはできないと思っていたと答えると「そん時の気分や。」と耳をほじりながら言われた。人の部屋で耳をほじらないでほしいが、ひとまず黙っておいた。この人の設定はよくわからない。

「友達と会うてきたんやろ、ええ気分転換になったんとちゃう?やっぱり昔馴染みの知り合いはええもんやしなぁ。」と窓枠に腰掛けながらちっさいおっさんが言うので、「なんで知ってるの?え、まさか隠れて付いてきてたとか⁈」と聞くと、「あほか。ワシも暇とちがうて言うてたやろ。ん〜‥三次元で生活してる自分には説明しても多分わからへんと思うからそこは割愛で。ワシはその気になったら、同時にいろんなとこにおれるねん。」
ふ〜ん‥と曖昧に頷く私にちっさいおっさんは
「結婚して子供もできて友達は順風満帆で。なんや自分は出遅れてるような気にでもなってんの?」と見透かすようなことを言ってきた。
図星を刺され返事ができないでいると、
「誰かを羨ましいと思う気持ちは隠さんでええやん。羨ましいと思うのは、自分もそうなれるのにっちゅう自分自身からのサインやと思うで。」
「サイン?」
「せや。そういう世界線が自分にだって用意されてるっちゅうこっちゃで。せやけどそこで自分には無理とか、でも‥だって‥とか考えてるのも自分やけどな。」

また難しい話をしようとしている。
「じゃ、どうすればいいの?」
「自分の頭で考えへんやっちゃな。まぁええわ、教えたろ。その『でも』と『だって』を徹底的にやめることやな。なりたい自分がおるのに、それに反対する声も自分の中にあるねん。自分で自分の邪魔をしてる感じやな。」
「なるほど。」
「なるほどって返事する時はだいたいわかってない時やって聞くけど‥ホンマにわかってる?」
‥鋭い。
ちっさいおっさんの言いたいこと、頭では理解するけどなかなかピンとこないものが多いのだ。

「そこをまず徹底的にやることやな。毎日毎日、朝から晩までいろんなこと頭で考え続けてるのが人間や。いっつも思考しとんねん。頭の中パンパンや。その思考をとことん自分で見つめ直してみ。その声は一体どこから来てるんやろな?それが自分の考えやと皆んな思い込んでるけどホンマは違うんとちゃう?小さい頃から今までの、親やら先生やら友達やらと関わる中で作られた、思い込みとか価値観みたいなもんとちゃう?経験に基づいて、こういう時にはこうするのが当たり前やろって自分の頭が勝手に作り出しとるだけの話や。耳を傾けるべきは頭の声とちゃうで。」

そこまでを一気に話し終えたちっさいおっさんは、私の反応を伺う。

「頭の声と心の声は違うってことだよね。似たような話を前に本で読んだことある。自我とはつまりエゴのことで、エゴは本当の気持ちをかき消して頭の中を支配しようとするとか‥だったかな。合ってる?」
ちっさいおっさんは嬉しそうに身を乗り出して
「そやそや、そんなもんや!意外に自分、素養あるんちゃう?この辺で胡散臭そうにワシのこと見てくるやつも、中にはおるからな。」
いや、そりゃそうだろうと思う。
私はその手の話が嫌いではないし、目に見えないものも信じないどころか興味があるほうだ。

「瞑想とか坐禅とかはな、あれは思考を静めて心の声を聞くことやな。いや、聞くっちゅうよりは繋がる感じかな。」
「なるほど。‥あ、このなるほどは、心の底からのなるほどだからね。」
私のフォローが嬉しかったのか、
「自分、可愛いらしいやっちゃな。」と褒められた。
‥なんか嬉しい。
「せやからな、こないだの話にも繋がるけど嫌なこととか嫌いな人のこと考えてる時間って、ほんま勿体無いやん?」
「うん、そうだね。もっと嫌な気持ちになれ、もっと落ち込めって言われてるようなもんなんだね。」
「ええでええで、その調子や。」
ちっさいおっさんは窓枠に立ち上がり、今日の講義はこれまでと言わんばかりに無言で頷くと「ほなまた来るわな!」と片手を上げると、またもや窓に溶けていなくなった。

月曜日。休み明けということもあり、窓口を訪れる人の波は朝から途切れることなく続いた。
昼休憩もそこそこに再び窓口に座る。
呼び出しボタンを押すと、近くの教会の神父さんがやってきた。ステンドグラスがとても可愛らしい、町の小さな教会。いつも物腰が柔らかく笑顔を絶やさない神父さんにぴったりの素敵な教会だった。

神父さんは振り込みをするために、月に一度やってくる。その日もいつも通り振り込み用紙を差し出して「お願いします。」と丁寧に頭を下げてくれた。とその時、背後の応接室のドアが勢いよく開き、中から支店長が顔を出した。
「岡田さん、ちょっと待ってもらってて!」と言い残し再びドアを閉めた。
なんのことかわからず戸惑ったものの、そのまま伝えると神父さんは「私なんかに支店長さんが何のご用でしょうか‥?」と首をひねったものの、すぐに「わかりました、待たせていただきますね。」と笑顔で答えてくれた。

そのまま5分が経ち、10分が経った。
神父さんは変わらず穏やかに座っている。
そろそろ15分になろうかという頃、黙って待ってくれている神父さんに対して私がいたたまれなくなり、仕事の区切りを見計らって席を立った。
応接室の前に立ち、扉越しに中の様子を伺うもよく聞こえない。
ためらいつつも手を伸ばしノックをしようとした瞬間、ドアが開き中から支店長が現れた。
私の顔を見て明らかに、なんだ?という顔をしている。てっきり支店長からは、長いこと待たせて悪いなという謝罪があるものと思っていたものだから面食らってしまった。
「あの‥中川さんずっとお待ちなんですが‥。」と声をかけると、支店長は怪訝そうな顔をした。
「中川さん‥?」
「教会の‥神父さんです。さっき支店長が待ってもらうようにと。」この辺りで嫌な予感はした。
支店長は
「あぁ、間違い間違い。帰ってもらって。」と悪びれる様子もなく、書類を手にすると再び応接室へと消えていった。

後に残された私は驚きとともに、神父さんへの申し訳なさで胸がいっぱいになりながらフロアを振り返った。相変わらずにこやかに待っている神父さんの姿が見える。

「本当に申し訳ございませんでした!」と何度も謝ると、「いやぁ、おかしいなぁと思ったんですよ〜。いえいえ、よかったです。」と神父さんは笑顔で帰っていった。
きっと応接室で支店長は、大口の融資先か預金者の相手でもしているのだろう。
どのお客様も大切な取引先のはずなのに。
相手によって態度や気遣いがコロコロ変わる、そんな支店長がたまらなく嫌だった。

その日の後味の悪さを忘れられず、
週末に私は教会を訪れてみた。
仕事以外でこの町に来るなんて初めてだと思いながら駅からの道を行く。改めて歩いてみると、毎日通っている場所にも関わらず知らなかったお店や会社がたくさんあることに気づく。

それにしても神父さん、少しくらい嫌味や文句を言ってもいいはずなのに。
いつも通りの笑顔で許してくれた。
普段から腹を立てたりしないんだろうか?
嫌いな人なんていないのだろうか?

教会の中へ入ると誰もいなかった。
しまった、教会なら日曜に来たほうがよかったのかな?日曜って礼拝あるんだよね‥たぶん。
そんなことを考えながら奥へと進む。
とりあえず座ってみた。
十字架を見上げていると、信仰心のない自分でもどこか敬虔な気持ちになってくるから不思議だ。

しばらくぼんやりしていると背後で扉が開いた。
神父さんかと思い振り返ると、一人の青年が立っていた。内心では帰ろうかと思いつつも、すぐに席を立つのもわざとらしい気がして動けない。
近くまで来た青年に「こんにちは。」と声をかけられた。
「こんにちは。」と返事をするもそれ以上の言葉も見つからず、仕方なく十字架を見上げた。

すると再び扉が開き、今度こそ神父さんがやって来た。私の顔を見ると「おや?」という顔をした。
立ち上がり「先日は長いこと待っていただいたのに、本当に申し訳ありませんでした。ご迷惑をおかけしてしまって‥。」と頭を下げる私に、神父さんはまたしても笑顔で「いえいえ、とんでもない。岡田さんまさか、わざわざそのためにこちらへ?」と、逆にこちらを労おうとしてくれている。
にこやかに2人の話を聞いていた青年に私から事情を説明すると「銀行の方も大変ですね。」と、これまた優しいお言葉。
さすが教会に来る人は違う。
我が職場がとてつもなく殺伐としたものに思えてくる。

すると神父さんが
「先生というお仕事も大変でしょう。」と青年に向かって話しかけた。
教会の近くにカトリックの幼稚園があることはなんとなく知っていたが、青年はそこの先生だという。恒例のフリーマーケットについての打ち合わせに来たのだと神父さんが紹介してくれた。高崎と名乗るその人は、一重のとても大きな目が印象的だ。吸い込まれそうな、なんとも不思議な魅力を醸し出している。「よろしくお願いします。」と真っ直ぐに挨拶されると、なんだか自分のことが恥ずかしくなる。

それからしばらくの間、教会というものに初めて入った私のために神父さんがいろいろな話を聞かせてくれた。そこで思い切って、ここに来るまで考えていたあの疑問をぶつけてみた。
「腹が立つこと?そりゃ、もちろんありますよ。そりゃあね。」と茶目っ気たっぷりに言ってから神父さんは続けた。
「でもね、この世に生を受けた人間はみんな、それぞれが一人ひとり人生の旅をしているんです。この体を通してしか経験できない喜怒哀楽すべてを体験するためにね。」
ちっさいおっさんに小難しい話を聞かされるのとは違って、神父様から聞く話は乾いた土に水が染み渡るように私の心に入ってゆく気がする‥。
誰から聞くかって大事なのね‥。
今頃くしゃみしてるかもな、ちっさいおっさん。

「怒りは身を任せるものではありません。怒りはコントロールするものなんですよ。そしてすべてを神に委ねるのです。自分の怒りは必ず自分で刈り取ることになりますからね。」

おぉ‥思わず目の前の十字架に祈りたくなった。
今度は私がちっさいおっさんにこの話をしてあげようかな。

私と神父さんのやり取りが続くあいだ、
高崎さんはずっとにこやかで、時には私と一緒に神父さんに相槌を打ってくれていた。

打ち合わせのお邪魔になっては悪いと気づき慌てて教会を後にしたけれど、もう少し高崎さんと一緒にいたかったなと思った。
神父さんにも謝れたし、思い切って来てよかった。満ち足りた気持ちを味わいながら駅までの道を歩く私の足取りは、来た時とは比べものにならないほど軽かった。

ちっさいおっさんはその後も数日に一回の頻度で現れた。その度に私の近況をたずね、それなりに参考になるような気がする話をしてくれた。
私もちっさいおっさんには何でも話せる気がして、おっさんが姿を見せるのを心待ちにし始めていた。
私に依存症と言い放ったスマホも好きな音楽を再生してあげたのを機にとても気に入ったようだった。音楽に合わせて変な動きをするのが見ていて可笑しかった。

ちなみに神父さんから聞いたありがたいお話は、ちっさいおっさんには教えていない。いつも得意げに話すちっさいおっさんのプライドを傷つけては可哀想だという、私なりの気遣いである。

そんなある日のこと。
月末で窓口は多忙を極めていた。
午後2時を回った頃、馴染みの顔がやってきた。
すぐそばの商店街で酒屋を営むその店主は、仕事の合間を利用して来店するため常に急いでいた。
窓口が混んでいると露骨に嫌な顔をする。

その日も見るからに機嫌が悪い。
番号札も取らず真っ直ぐ私の窓口へ来たかと思うと「これお願い。」と振り込み用紙を渡してきた。
番号札を取るようお願いすると舌打ちされた。
さすがにムッとくるものの、これくらいのことは珍しくない。つとめて平静を装い仕事を続ける。
しばらく経った頃、酒屋の店主が再び窓口に立っていることに気がついた。
「いつまで待たせんだよ!」と大きな声を出された。フロア中の視線が集まるのがわかる。

「申し訳ございません、順番にお手続きさせていただいておりますので‥」
できるだけ丁寧に詫びたつもりだったが店主の怒りは収まらない。
「いいからこれやっとけよ!」
振り込み用紙や出金伝票と一緒くたになった通帳を思い切り叩きつけられた。
そのまま振り返りもせず店を出て行ってしまった。

静寂。
いや、店内は混み合っていたし静まり返るほどではなかったはずだ。
たぶん、私の中での音が消えたのだ。
咄嗟にしゃがみ込んで泣いてしまった。
情けなかった。感情に負けてしまった自分が。

あれだけ忙しかったのに、その日の集計は一度でぴたりと合った。ほっとしながら綴じ物をしていると、近くで伝票整理をしている杉本さんと目が合った。疲れと安堵感からあの杉本さんにも思わず微笑んでしまう。

すると杉本さんが席を立ち私のところへやってきた。やばい‥また何か言われるのかなと思って身構えていると「大変だったね、今日。」と声をかけられた。「あの人わざと忙しそうにしてるのよ。勿体ぶっちゃって、嫌なヤツだよね。」
まさかの、私の味方である。
「泣いてしまったのはダメでした〜‥。でもありがとうございます!」と出来るだけ気持ちを込めてお礼を言うと、
「あのオヤジは嫌なやつで有名だからさ、皆んなちゃんとわかってるから。気にしなくて全然大丈夫よ。」そう言い残し杉本さんは満足そうに席へ戻っていった。

‥びっくりである。
励まされたぞ、今。
嫌な出来事もなんだか結果オーライだった。

それにしても。
やっぱり杉本さんの口から出るのは悪口なんだなと、心の中で苦笑いではあった。

その日の夜、私から杉本さんの話を聞いたちっさいおっさんは我が事のように喜んでくれた。
「酒屋のおじさんもさ、結局は自分の怒りのエネルギーに飲まれちゃってるだけの人なんだよね。私に投げつけた怒りはきっと、回り回って本人に返ってくるのかもね。そう考えるとさ、あのオヤジ腹立つ!じゃなくて、お気の毒にって思えばいいってことだよね。」
そう言った私を、ちっさいおっさんは驚いた顔で見つめた。
「なんかめちゃくちゃ成長してない?自分。」
「えっ?そ、そう?そうかなぁ‥。」
なんてことはない、神父さんの受け売りだ。

「ところで‥前に言うてた保育士の先生とはどないなん?」
「えっ‥どないも何も‥。何もないけど。」
「仲良くなりたいんとちゃうのん。」
「‥でもキッカケが。」
「あっ!ほれ出たで。でも〜、や。そんなん決まってるがな、そのフリーマーケットとやらに行くしかないやんか!」
フリーマーケットに行く‥。
ちっさいおっさんに焚き付けられ、おっさんが帰った後もなんだかソワソワし始めている自分がいた。その夜、以前とは違う理由でなかなか寝付けなかった。

2週間後、待ちに待った神父さんがついに振り込みにやって来た。フロアには3人ほどのお客さんがいた。神父さんが引いた札の番号を、どうにかして自分が呼びたい。
その意図を誰にも悟られぬようにと思うと胸が早鐘を打つ。できるだけ自然を装いつつも、少し食い気味に呼び出しボタンを押した。

その日、神父さんと以前よりも親しく会話ができているのがとても嬉しかった。
会話の流れでフリーマーケットの日時も教えてもらい、必ず行きますねと約束もしておいた。
心の中でガッツポーズ。
ありがとう、ちっさいおっさん!
ありがとう、神父様!
ありがとう‥

あれ?これってもしかして、
支店長にもありがとうじゃないか?
あの時、支店長が神父さんに失礼なことをしたから私は教会へ出向いた。
それがなかったら高崎さんとも会わなかったのだ。

‥あれ?あれあれ?ちょっと待って。
それを言うなら、酒屋の店主のクレームもそうではないか。仕事中に皆んなが見ている前で泣いてしまって、最悪な日だと落ち込んだけれど。
でも、そのお陰で杉本さんに励まされたのだ。
あれから私も杉本さんへの苦手意識が軽くなり、杉本さんの私への表情や態度も以前より柔らかくなった気さえしている。

なんだか不思議な気持ちになった。
不思議だし、それと共に胸に小さく明かりが灯るような気がした。
どちらの出来事も捉え方次第で良くも悪くもなるんだ。すごい発見をしたような気分になって、早くちっさいおっさんに話して聞かせたくなった。

私の念が届いたのか、その日の夜ちっさいおっさんは現れた。
話を聞き終えるとこれまでになく大きく頷いた。
「素晴らしい。いやぁ、まじで素晴らしい。」
そう何度も繰り返す様子に私も嬉しくなる。
「それに気づくとな、嫌なことや悪いことが起こっても気持ちの持ちようが全然違うねん。ピンチはチャンスっちゅう言葉あるやろ。あれはまさにそういうことやねんな。」

いつもと違い自分で得た気づきだったため、私もいつもより積極的に話を聞く。その前のめりな感じが、ちっさいおっさんの気持ちをさらにくすぐったに違いない。おっさんの口調にも熱がこもる。

「ピンチに見える事態に直面しても、さてさて今度はどんなチャンスが巡ってきたんかな〜?って思えるんよ。それって最強ちゃう?そうやって受け止めることができるようになると、ホンマにピンチはピンチやなくなる。むしろチャンスになっていくもんなんよ!」

今までになく猛烈に納得できる。
やっぱり身をもって体験するのは違うなぁ。
「その場で高く飛び上がる時は、飛ぶ前に一度低くしゃがんだ方が大きくジャンプできるやろ?それと同じやって思たらいい。一回落ちても、その次はめっちゃ高く飛べる!」そう言いながら、ちっさいおっさんはぴょんとジャンプしてみせた。
ちっさいおっさんの話が何から何まで腑に落ちる快感。胸の中が安堵感で満たされてゆく、この感じ。満足感と高揚感。それはそれで気持ちが昂り、その日も結局なかなか眠れなかった。

やがて心待ちにしたフリーマーケット当日。
今日も相変わらずの寝不足だが、ゆうべ眠れなかった理由はいつもと違う。

何を着ていくかで悩みに悩んだ。
クローゼットを前に腕を組みながら、ああでもないこうでもないと悩み抜き、
ようやく取り出した洋服を鏡の前であててみては却下。それを何回繰り返したことか。
ちっさいおっさんもやって来て、ベッドの上に寝そべりながら私の様子を見物していた。
「お、それええやん。」とか「可愛いやん、それええんちゃう?」とかちゃんと返事をしてくれたのも最初のうちで、だんだん投げやりになってくるのがわかる。
しまいには「なぁ〜‥そこまで誰も見てへんって。なんでもええがな〜。」とまで言い始めた。
とうとう痺れを切らしてちっさいおっさんが帰っていっても、私のファッションショーは深夜まで続いたのだった。

そんなわけで今日も眠い。
いや、眠いけど眠くない。
朝食もそこそこに出かけようとする私に、母がニヤニヤしながら近寄ってきた。
「なんだか今日はいつもと雰囲気違わない?なんていうか、可愛いじゃない。」と意味深な視線を寄越してくる。
「フリーマーケットのお手伝いだけだよ。夕方には帰るから。」とだけ言って家を出た。
手伝いも何も、神父さんには見に行かせてもらうとしか言っていないのに。
あっという間に帰ることになっちゃったらどうしようかな‥。どこで時間を潰そうかと考えながら、駅までの道を歩いた。

幼稚園の門の前はすでに沢山の人で賑わっていた。
駐車場と園庭を使って開催されており、たくさんの人がレジャーシートを広げ所狭しと商品を並べお店を出している。近所のお年寄りや親子連れに混じり、各ブースを眺めて回った。
各家庭から持ち寄られた不用品や、いらなくなったおもちゃに洋服。手作りのお菓子やパン、既製品かと見まがうほどによく出来た手作りバッグなどなど。

眺めているだけでも楽しい。
楽しいんだけど、常に私の目は視界の端に高崎さんを探していた。
なんとなく立ち止まったお店の前でふと、ひとつの商品に目がとまった。
アルファベットのTを模したようなペンダント。
Tの文字は木で作られていて丸みを浴びた形がなんとも可愛らしい。ちょうどジグソーパズルのピースのような形をしている。
腰をかがめて手に取ると、お店の人が声をかけてきた。
「それ、私の祖母が持ってたものなんです。可愛いでしょ?お姉さんに似合うと思いますよ。よかったら着けてみてくださいね。」
鏡を用意されたので着けてみると、シンプルでなかなかいい。
T‥って、高崎のTじゃないか。
そんなベタな買い方をするなんてと思いつつ値段を聞いて買うことを伝えると、
「初めてのお客さんだ。」と言って、とても喜んでくれた。

お礼を言って店を離れた時、神父さんが園庭の方からやってくるのが見えた。
頭を下げると、神父さんも私に気がついて会釈をしてくれた。
近寄って改めて挨拶すると、
「お休みのところわざわざありがとうございます。ゆっくりお買い物していってくださいね。園舎の中に休憩所もありますので、ぜひそこでお茶でも飲んでってください。こないだの高崎先生もいらっしゃいますよ。」と言われ、早くもドキドキしてしまう。
早く高崎さんの顔が見たいと思う気持ちと、
会っても何を話せばいいのかわからないから会話が続くか不安な気持ちと。その両方だった。
まっすぐ休憩所へ行く勇気が出ず、
わざとゆっくりお店を見て回った。
自分のこういう天邪鬼なところ、ほんといらない。
どう考えても全てのお店を見つくしてしまい、
ようやく私は園舎の中の休憩所へと向かった。

ここでもお年寄りのグループや小さい子供を連れた若い夫婦などで賑わっており、席はほぼ埋まっていた。高崎さんの姿も見えない。彼の顔を見るためにわざわざフリーマーケットにまで来たくせに、なぜかホッとしながら園舎を後にする。

さて、これからどうしよう‥。
自分の足下を見つめながら歩いていると、あの時と同じように「こんにちは」と声がした。
驚いて目線を上げると目の前に高崎さんが立っていた。「お休みの日なのに来てくださったんですね!ありがとうございます。」とまたもや真っ直ぐに目を見て言われ、咄嗟に視線を外してしまう。
「何かお買い物はされましたか?」とさらに笑顔で聞かれたので、胸元のペンダントを見せながら今度はちゃんと目を見て「はい、とっても可愛いのが買えました。」と答えることができた。
ペンダントを見た高崎さんは
「それは‥聖フランチェスコのペンダントですね!」と大きな目をさらに見開いてから笑った。
聖フランチェスコは13世紀イタリアのカトリック教会の聖人で、愛と平和を説いて清貧の中で生きた人なんですと秋山さんが教えてくれた。
幼稚園の先生ってこんなことまで知ってるの?と驚くほど、澱みなく高崎さんの解説は続く。
「そのTのような文字はヘブライ語でタウっていうんです。タウはヘブライ語の最後の文字で生命の印なんですよ。フランチェスコはこの文字をとても気に入って、布教のシンボルとして使っていたらしいんです。」
「そうなんですね。」としか言えない自分の知識不足が嫌になるが、たまたま見つけたペンダントが高崎さんとの会話を助けてくれるなんて‥!
きっと私はこのペンダントに呼ばれたに違いない。
そう思いながらペンダントを触っていると、
「休憩所、いっぱいでしたよね?もし良かったら職員室でお茶でもいかがですか?」

おぉ、聖フランチェスコ‥!

職員室に入ると、数人の教職員と思しき女性の姿があった。どの人も若くて可愛らしい、絵に描いたような幼稚園の先生だと思った。
そっか、いつも高崎さんはこの人達と仕事をしているんだ。高崎さんのことだから、きっと先生たちからも人気あるんだろうなぁ‥。
「こんにちは。」と可愛い先生から挨拶をされ、勝手に敗北感を味わう自分がいた。
小さな応接セットのようなものがあり、そこで高崎さんがコーヒーを出してくれた。
「盛況ですね。」と言うと「お天気にも恵まれて、本当によかったです。」と微笑んでくれる。
あ〜‥なんか癒されていくなぁ、私。
「さっきのフランチェスコのお話、高崎さんお詳しいんでびっくりしました。」と言うと、
「カトリックの学校にも通ってたんですけど、自分でも宗教に興味があって。いろいろと勉強しました。」と照れくさそうに教えてくれた。
可愛い‥と思わず見惚れる。
改めて見てみると、高崎さんの瞳の色は綺麗なブラウンだった。
すると職員室の扉が開き、少しベテラン風の女性が顔を覗かせた。
「あっ、いたいた。高崎先生、自転車整理手伝ってもらえますか?」
高崎さんは、はいと返事をしてから私の方を見て申し訳なさそうに「ごめんなさい、もっとお話したかったんですけど‥。」と言ってくれた。
いえいえ、こちらこそお邪魔しましたと私も一緒に席を立ち、園庭へ出た。
もっとお話したかった‥
高崎さんが言った言葉を心の中で繰り返しながら、駐車場へと駆けていくその後ろ姿を見送る。
もっとお話したかった‥
どういう意味だろう。
いや、そういう意味か。
そうだ、それだけの意味だ。
それ以上でも以下でもないけど、それでも嬉しかった。

最後にもう一周ぐるりとお店を見て回り、
神父さんと高崎さんに挨拶をして園を後にした。

家に帰ると母が話を聞きたそうにしていたが、仕事の延長みたいなものだから本当に何もないと説明しておいた。久しぶりに履いたスカートにきっと説得力はないだろうけど。

夜になりベッドに寝転んでいると、予想通りちっさいおっさんがやって来た。
「フリーマーケットどやった?高崎さんに会えた?」私の顔を見るなり挨拶もなしに聞いてきた。
気にしてくれているのか、単なる野次馬か。
ペンダントの話や職員室でお茶を飲んで話したことを報告すると、「若くて可愛い先生にヤキモチとか焼いたんちゃう〜?」とズバリ言い当ててくるので驚いた。
「えっ、ちょ、やっぱ付いて来てたんでしょ!隠れて見てるなんて最悪なんだけど!」と言うと「だから違うって言うてるやん。ワシは同時にいろんなとこに行けるねんて。」と悪びれる様子もない。「図星なわけや。」と嬉しそうなちっさいおっさんの顔も見ずに「もう電気消すよ。」と言うと「ええね〜楽しそうやなぁ〜。」と独り言のように呟きながら、そのまま部屋から出て行った。
それから数日間、ちっさいおっさんは姿を見せなかった。私が怒ってると思ってるんだろうか。
来たら来たで面倒くさいけど、来ないとなると物足りない。

フリーマーケットから10日ほどたったある日の午後、自動ドアから高崎さんが入ってくるのが見えた。番号札を引き、私が座っている窓口まで来ると自分が引いた番号を見せてくれた。
わかりましたと目で合図をすると、高崎さんは席に座った。2人だけでアイコンタクトをしたという事実に思わずニヤける。
高崎さんの番号を呼ぶと、麗しのブラウンの瞳がこちらへ向かってやって来た。
「先日はありがとうございました。」と小さくお礼を言うと、こちらこそと笑ってくれた。
「どんなご用でしょうか?」と尋ねると高崎さんは、「実は‥岡田さんにお聞きしたいことがありまして‥。これ、読んでください。」と一冊の通帳を私に差し出した。よく見ると中に手紙が挟んである。
通帳と高崎さんとを交互に見やる私に高崎さんは
「僕の連絡先も書いておきました。よければお電話ください。できれば直接会ってお話したいのですが‥。突然こんなこと言って本当に申し訳ありません。」と言った。
予想外の展開に、どうやって通帳だけを返したのかもわからない。
それでは‥と店を出て行く高崎さん。
その後ろ姿を見ながら完全にフリーズする私に、隣の後輩が興味津々な視線を寄越してきた。

そこからの時間、窓口に座っていても心ここに在らずだったのは言うまでもない。めちゃくちゃハッピーな想像と、それが裏切られた時の落胆に対する恐怖とが頭の中を行ったり来たりしていた。結局、家に帰るまで手紙は読むことができず、帰宅してまっすぐ自分の部屋へ行きベッドの上で呼吸を整える。

こんなタイミングで、もしちっさいおっさんがやって来たら面倒だぞ。早く読んでしまった方がいい。
そう思い手紙を開く。

そこには、まったく予想外のことが書かれていた。

急いでスマホを取り出し、書いてある番号に電話をかけた。高崎さんはすぐに出てくれた。
「高崎さんはいつから知ってたんですか?」


日曜日、若者で賑わう繁華街で高崎さんと待ち合わせをした。少し早めに着いたつもりだったが、すでに高崎さんは待っていた。

ちっさいおっさんは高崎さんの前にも現れていた。
教会で私と高崎さんが会ったのは本当に偶然だったという。教会で高崎さんと会った話を私から聞き、その後で私と会った話を高崎さんから聞いた時の、ちっさいおっさんの驚きを想像した。
「話を聞いたのはフリーマーケットの数日前です。いや、本当にびっくりしましたよ。まさかあなたも同じ‥」そこまで言いかけて高崎さんはふふふと笑った。そりゃそうだ。
「こんなことってあるんですね。」と私が言い、
「あるんですねぇ。」と高崎さんも言った。
私がフリーマーケットへ行くよう仕向け、高崎さんにはこっそりネタばらし。
あのおっさんときたら、キューピッドにでもなったつもりだったのか。

それにしても。
いつまで出てこないつもりなんだろう、ちっさいおっさんめ。
「岡田さんのところにもまだ来ないんですか?」
「ですね。もしかして、このまま現れないつもりなんでしょうか。」
「どうかなぁ‥。」
高崎さんが予約してくれたお店の窓際の席についた時、外の植え込みで小さく動く影に私も高崎さんも気がつかなかった。

翌日、満を持したようにちっさいおっさんは現れた。初めて私の前に現れた時と同じ、一人で留守番をしている休日のリビングに。
さくらはやはり気持ちよさそうに座布団で寝ている。

あの日と同じように食卓に座り、
「自分とこに来ることはやっぱ最初っから決まっとったんかなぁ。おもろかったな、ほんま。」としみじみ言ってから
「最後にもうひとつだけ、ええこと教えたるわ。」とおっさんは言った。
「え、どっか行っちゃうの?」
「当たり前やがな。ずっとは来れへんよ。他にもワシのこと必要としてる人間がぎょうさんおるからなぁ。」
「高崎さんのところにも、もう行かないの?」
「まぁ‥そうなるかなぁ。」
さみしくなるねと言うと、
「ま、これからは高崎さんと2人で仲良くしいや。」とニタニタしながら言ってきたので前言撤回したくなった。

ちっさいおっさんは
「あんな、presentっちゅう単語、知っとるやろ?」と聞いてきた。
「贈り物のpresentだよね。」
「そや。あれな、他にも意味あるねん。知ってる?」
「うーん‥覚えてないなぁ。」
私が首をひねると、たっぷり間を置いてからゆっくりと、一音一音を噛み締めるようにちっさいおっさんは言った。

「現在や。」

うわ‥

「今やで、今。今この瞬間が神様からのプレゼントってことや。」

‥ちょっと泣きそうになった。

そんな私の表情に、ちっさいおっさんは満足そうに頷いてヒョイと床に飛び降りた。
「ほな、元気でな!またいつか顔見に来たってもええで〜。そん時はまた音楽聴かしてや!」
腰をひと振りしたのち、
さくらが眠る大きな掃き出し窓のほうへと走っていき、そのまま眩しい光の中へと溶けていった。


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