《250年前の教育書とダメ、ぜったい!》の長いメモ

最近、250年前の教育書の言葉をよく思い出す。

【まずはじめに、ちょっとした身振りでやめるよう命令してみればよい。それでも泣き声がやまないようであれば、その時には泣くことをはっきり禁止して、大げさに騒いだ科で子どもを罰し、子どもが泣くのをやめるまで続けるがよい。】(1773年)

もう一つ。こちらは160年前。

【この技術とは自分のしたいことを我慢する技術である。子どもはその拒絶をおとなしく受け入れるようにならねばならぬ。もし必要ならば、きつく言ったり、おどかしてやったりなどしてでも、子どもがいつでも間違いなく親の拒絶をおとなしく受け入れるようにしつけることだ。…自分の意思を押え、操作することに慣れておくのは子どものためにもなり、また必要不可欠でもある。】(1858年)

2020年の特別支援教育とは、これらを「おとなしく受け入れない」子のことを、ふつう学級に「いてはいけない」と呼んでいるんじゃないのかな。8才の私がそうだったように。

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沖縄の小中学校の「自閉症・情緒障がい特別支援学級」に通う児童生徒が2019年度に3389人となり、10年度の272人から10年間で12・5倍に急増した、という記事を読んだ。

10年前なら、ふつう学級にいることができた3117人の子どもが、今は「特別支援学級」にいるのだという。

「発達障害への理解が進んだ?」
そんなことを、本当に真面目に思えるものだろうか?

それなら、10年以上前に、「ふつう学級」にいた3117人の子どもたちが、今、どんな苦労を持っているのかを、ちゃんと調べたのだろうか?
その子たちは、小学校で、どんなふうに、何が足りなかったのか?
それは、分けて学ぶ形の支援だったのか?

3117人の子どもたちの10年後、どんな「成果」があり、どんな「苦労」を抱えることになるか。
真剣に考えている人はどれくらいいるんだろうか?

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「禁じられた知」という本を思い出し、読み直している。原題は「汝、気づくなかれ」。


私が人生でこだわってきたことはどれも、「汝、気づくなかれ」だったのだと思えてきた。

「気づいてはいけない! ダメ、ぜったいに気づいてはいけない!」
「あなたが感じるように感じてはいけない」。
「泣くな」
「言われたとおりにしろ」
「逆らってはいけない。ダメ、ぜったい!」

       □

「言われた通りにできない? ダメ、ぜったい!」
「人の手をかりる? ダメ、ぜったい!」
「人の知恵をかりる? ダメ、ぜったい!」

「みんなについていけない? ダメ、ぜったい!」
「45分座っていられない? ダメ、ぜったい!」
「ひらがなが書けない? ダメ、ぜったい!」

「車いす? ダメ、ぜったい!」
「エレベーター? ダメ、ぜったい!」
「医療的ケア? ダメ、ぜったい!」

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「発達障害? ダメ、ぜったい!」
「不登校? 学校に行かない? ダメ、ぜったい!」
「ふつう学級に行く? 障害があるのに? ダメ、ぜったい!」
「点数が取れないのに高校? ダメ、ぜったい!」

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「分からない授業? ダメ、ぜったい!」。いや、「分からない授業をする先生じゃなくて、子ども。ダメ、ぜったい! 分からなきゃダメ、ぜったい!」

「迷惑をかけてはいけない、ダメ、ぜったい!」
分からない授業をするのは、先生が子どもに迷惑をかけていることじゃないの?
いや、先生の授業は絶対だから、それを分からないのは、子どもが悪い。

       □

「ボケてはいけない! ダメ、ぜったい!」
「世の中から認知症をなくしたい! 認知症、ダメ、ぜったい!」
「認知症予防! 脳トレ! こうすれば認知症を防げる! 認知症になったらおしまい! ダメ、ぜったい!」

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・・・・
でも「死にたい」は、「ダメ、ぜったい!」ではない。
「死にたい? 人に迷惑をかけるだけだから? それならOK! 」

「ボケてはいけない、ダメ、ぜったい!を守れなかったから?  それならOK!」
「障害者になってはいけない、ダメ、ぜったい!を守れなかったから? それならOK!
「人の手をかりてはいけない、ダメ、ぜったい!を守れなかったから? それならOK!
「迷惑をかけてはいけない、ダメ、ぜったい!を守れなくなったから? それならOK!

人として最低で、生きる資格がないことはダメ、ぜったい!という「教育の教え」を守れない身体になってしまったから、死ぬのが最後の努め。
最後の従順。
「教育の教え」を守るために、最後の務めは死ぬことしかない。それならOK!

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さてと。この長いメモをどうしよ。

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