最後の就学相談会(その8)

《守りについて》

この子にとって、どの場所が安全で安心か。
どの場所なら、この子の主体と自由を守れるか。
どの場所なら、この子の笑顔を守れるか。
「どの場所なら?」
そんなもの、「どこにいても」に決まってる。
      □
8歳のとき、私は分けられた。
私は学校に歓迎されない子どもだった。
先生は敵だった。親は逆らえなかった。
友だちには隠し続けた。妹はまだ小さかった。
私には「守り」がなかった。
      □
私が分けられた後、校長と担任が家に謝りにきたのだという。
私を守ったのは、IQという数字だけだった。
IQに守られた? そんなわけないだろ。
それじゃぜんぜん守られなかった。
「本当はバカじゃなかったんですね」
「やればできる子だったんですね」
そんなものに守られた人生でたまるか。
個の能力? そんなもん、ただ親からもらった身体のこと。
だから、本当の悪い子の私は、本当は何に守られたのだったか。
探し続けてここにきた。
      □
ふつう学級の「いること」を守りながら、私は何を守ってきたか。
障害があろうがなかろうが、ふつう学級に「いること」を、「ここは、誰もが、ここにいることが揺るがない場所なんだよ」と伝えたかった。
「いること」が揺るがない寄る辺を、この子に贈りたかった。

どこにいても。子どもの「今」を守りたかった。
「次」も守りたかった。

8歳の私がほしかったのは、「いること」が揺るがない寄る辺だった。
どこいても。親がいても。親がいなくても。
「自分のいること」が揺るがないために必要な寄る辺。
どんな状況でも。癌になっても。障害があっても。
どこにいても。ふつう学級でも。特別支援学校でも。
「ここでなければ」という怖れがあれば、どちらにいても「揺らぐ」。
IQで守る? 個の能力を伸ばして守る?
選んだ場所で守る? 親が一生守る?
そうじゃない守りを探してここにきた。

さてと。
私の探している「守り」はなんだろう。

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