この子のつながりを


「先生、この子はふつう学級に行かせようと思うの」 
電話の声が聞こえる。
「お兄ちゃんの時はだまされたから」 
三十三年前から声が届く。

      ◇

「先生はやめてよ。もう学校はやめたんだから」。
何度言っても呼び方は変わらなかった。だから、いまもそのままの声が聞こえる。

「先生、私ね、お兄ちゃんが小さいころ、歯医者から逃げるのを追いかけて、裸足で道路に飛び出したことがあるの。どうして。どうして、ちゃんとできないのってお兄ちゃんをたたいた…。人目も気にしないで、泣きながらお兄ちゃんをたたいた。お兄ちゃんも泣きながらごめんなさい、ごめんなさいって。お兄ちゃんが道路に土下座して謝る姿をみて、ふと我に返って…。誰か何か言ってくれた気がする。あの日、どうやって家に帰ったか覚えていないの」

「お兄ちゃんはパニックになると大変だったけど、言葉は話せたし漢字も得意だったでしょ。もうちょっと成長すれば、がまんできるようになればって思って。無理してがんばらせた。やればできる子だと思ったから。だけど4年生になって、通級の話になって。そういう訓練を受けた方がこの子のためだって。それから戻っても遅くないって。」

「担任はそう言ったけど、週に二日ずつお兄ちゃんの居場所が削られていった。あのね、先生、つながりが切れる音が聞こえるの。静かになるのよ。あの子の周りにあった音がどんどん静かになって。そのうち4年2組って言わなくなった。」

「もうちょっとだったのに。もうちょっとがまんできるようになれば、うまくやれたのに。お兄ちゃんのいいところを見てくれる人がいれば。ずっとそう思ってがんばらせた。」

「お兄ちゃんのせいじゃなかったのよね。先生が誘ってくれた会には、子どもを恥ずかしいと思っているお母さんはいなかったでしょ。ほっとしたの。ああ、私もそうしてよかったんだって。できないことを恥ずかしいとか、なんとかしなきゃなんて思わなくてよかったんだって。あんなにがんばらせなくてよかった。だってあの子はもう十分にがんばっていたんだから。」

「先生も知ってる通り、弟は言葉も話さないし、できないことだらけ。お兄ちゃんより重い障害だって分かってる。だから学校のことは考えないようにしてきたの。でもね、先生、この子はお兄ちゃんより笑顔で保育園に通っているの。園に着くと、私のことなんて一度も振り返らずにみんなのところにかけていく。お兄ちゃんの時と違って、この子は先生にもお友だちにも恵まれているの。」

「ねえ、先生。私ね、どうしてあんなに不安だったのか分かった気がする。障害のせいじゃなかったのよね。お兄ちゃんが地域の学校から追われて、パパも病気で仕事に行けなくなって。でもね、先生、いまはあのころほど不安じゃないの。この子がいてくれるから。この子が笑ってくれるだけでいいの。お兄ちゃんのときも本当はそうだったのにね…。」

「お兄ちゃんは無理だったけど、この子のつながりは守ってあげようと思うの。それでいいのよね。この子もふつう学級に行っていいのよね。ランドセルも買ってあげたの。この子、ランドセルをみて笑うの。だからね、先生、わたし、この子をふつう学級に入れてあげようと思うの。いろいろ言われるのは分かってるけど、私、決めたの。お兄ちゃんの時はだまされたから。」
       ◇

――― 年が明けたら会いにいくはずだった。大晦日の夜に突然倒れたと聞くまでは。
いまもKさんの声が聞こえる。話はまだ途中だったから。

つながりはまだ、消えない。

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