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私が神社で必ず思うこと。そして、「神様」の存在意義

前回の記事で「あまり神様を信じていない」と述べたけれど、あれは少し間違いだと思う。何しろ家系そのものが神社と直接繋がっているのだから、私は実際のところ、神様を信じているほうだ。

だけど、私は神頼みがとても苦手だ。神様は自分を救ってくれるとは限らないのに、そんな存在をどうして、すべてを投げ出すほどに信頼できるのだろうか? 言葉はともかく、小さい頃から似たようなことを思っていた。

あれは中学生の頃だ。社会の授業で先生がぼそりと言った。菅原道真に話が及んだ時だった。クラスは「(テストで点を取るために)天満宮へ行こう」と盛り上がっていた。

先生は、「神様は努力をしない人間は救わない」と言った。

今から思えば、先生も決して深く考えて述べたとは限らないように思う。「神様は努力をしない人間は救わない」かどうかは、宗教・宗派によって異なるから、一概には言えない。先生はただ、目の前の中学生たちに、神頼みで満足するなよ、しっかり勉強しろよ、と言いたくなったのだと思う。

でも、その一言は間違いなく、私の人生を変えた。その日から、私は神社に行くたびに、ある言葉を心の中で繰り返すようになった。

「私の今の目標は〇〇です。そのために、私はできる限りの努力をします。だから……

努力に見合った成果をください!

努力が報われるとは限らない。だからせめて、そこだけは神様に助けてほしい。努力が足りないなら成果は足りなくてもいいから、努力が足りているなら、しっかりとした成果が欲しい、と。
神頼みが苦手で、それでも神様を信じていなければならない立場にあった私にとって、この言葉、この発想は救いだった。努力をすれば神様は見ていてくれるから、今できることを必死に頑張ろう、と。
毎月のように参拝していた神社での時間は、無意味かもしれない神頼みの時間から、「私は目標に見合う努力をしているか」と、自分に向き合う時間へと変わった。

この習慣は、今でも変わらない。

とはいえ、この習慣を他人に押し付けたくはない。
この言葉が何度も私を殺しかけたからだ。

年を重ねていくと、次第に、自分の掲げる目標と合致しない結果も増えてきた。うまくいかない、成果が出ない。すると、どうなるか。
私は目標に見合う努力をしていない」。そんな発想になる。
もちろん、その分析が正しいこともあるけれど、そうでないこともある。努力をしていても、報われないこともある。そんな時、自分ひとりだけに矛先の向くこの言葉は、何度も私を殺しかけた。

仮に、目の前に中学生がいたとしても、あの先生と同じことは言わないと思う。
だけど、神社で過ごす時間を、ただの神頼みから「自分と向き合う時間」に変えてくれた先生の一言は、私にとってとても大切なものだ。
あの言葉は、確かに救いだった。

宗教と無縁ではない人生を歩んできた自分に、嫌気がさすこともあった。自分が選んだわけではないから、尚更だ。「カルト」と言われるようなものではない普通の神社だけれど、今のご時世は、とくに。
だけど、もしも「神様」という存在が「自分と向き合う」ために存在しているとしたら、どうか。たった一枚のおみくじが人生を少しだけ変えるように、私たちに大切なことを思い出させてくれる存在だとしたら、どうか。

それなら少しだけ、私という存在も、否定せずに済むような気がする。
先生、元気かな。

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