コロナ下だからの規制

コロナの蔓延を禍だとする言葉である"コロナ禍"と言う標語は完全な間違いである。災いとは実際は人の手でどうしようもないものの事を示し、禍いと言う標語はその段階が如何様にもしがたいものの事を示す。コロナの拡大傾向は人の動きに比例するのは、情報を多少見ていてもわかるのだ。

さて、創意創作の本質の話である。本来創作とは人間の感情や情動と言ったものの表現である。事実はもう少し違い、明るい時に明るく、絶望の時に絶望的な作品が生まれると言った実に直感的な作品と言うのが、須くすべて創作なのだ。必然的にコロナの状況とは、先の見えない不安や焦燥、恐怖と言った感情はどうしても働き、それは創作物にも比例する。分かりやすいのは大人の作品ではない。子供たちの作品なのだ。大人は小賢しくこの作品が受けるか等と愚考を巡らす一方で、子供たちはその愚考がない分、素直にその気持ちを形にする。むしろ、この状況において、儲けたい、楽したい、受けいれて欲しい、認められたい、、、。そういった大人の強欲が何かの形になるだろうか?恐らく一時的な満足感になっても、そんなものは満たされることのない欲でしかない。今、それが必要だろうか?それは本当に必要だろうか?人間は生きているだけで周りには仲間たる子供たちがいる。もっと拡大してみればご老人や体が不自由な人がいる。その人たちがこのコロナの状況でどうやって過ごしているだろう?想像力が欠如していても想像できるだろう。今、創意創作に必要なのは発信ではないのだ。創作をするなと言うのではない。それは必要な事だが、発信していいか考えてみるのだ。大人の創作は悲しいことにある程度の基準で良し悪しは決められてしまう。しかし、それは基準を作るものがいなければ成り立たない。発信とは、その基準を無数の人に委ねることだ。しかし、子供がそうであるように、その基準の権限は本来自分が持っているものなのだ。だとすれば、この状況で自己を他者に決めてもらうことは必要なのであろうか。かんがえてもらいたい。再度言うが、創作をやめろとは言う気はない。それは僕も毎日やっている。しかし、発信はどうだろうと言う話だ。

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