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ホタルイカの目

 ぼくは、ホタルイカの目をどんなふうに位置づけて味わえばいいのだろうか。
 一杯ずつチビチビと食べれば、それほど考えこまなくても構わない。
だけど、ひと口で三~四杯はガッツリとほおばりたい。ハラワタの旨味を贅沢に味わいたいからだ。
こんな下品な食べ方をすると、必ずといっていいほどホタルイカの目が奥歯の隙間にはざかってしまう。

 ここで寄りみち。「はざかってしまう」と書いたけれど、これは山陰地方を中心にわりと広範囲に使われている方言で、「はざかる=はさまる」のようだ。筆者は「丹波のグリエゴ」と名乗っているように、京都の日本海側の出身で、標準語だとずっと勘違いしていた。たまたま、入力をお願いしているヘルパーさんが「はざかる」に「はざかって」しまったので調べてもらった。

 ホタルイカの目に話をもどす。
 歳をかさねて、歯のあちらこちらに隙間ができるようになった。ささがきゴボウやエノキみたいな細長い形状なら、舌先と対向する歯(上の歯にはざかっていれば下の歯という意味)で挟みこんで、なんとか引っ張りだすことができる。
 ところが、ホタルイカの目はきれいにはざかってしまうと、ビクとも動こうとはしないし、日が経っても溶けていくこともない。

 それじゃあ、食べる前に取ってもらえばよいという話になるかというと、そういうワケにもいかない。
とても不思議だ。無限大に不思議だ。
 はざからないように慎重に噛んでみたところで、別に特別な旨味が滲みだすことはない。硬い感触が残るだけだ。ふつう、気の利いた居酒屋などでは取って出すのが常識らしい。

 それでも、ぼくははざかるリスクを負ってでも、あの存在感に出逢わないと、どこか淋しい気持ちになってしまうのだ。
 先ほど「無限大」という表現をしたけれど、「どこか淋しい」という曖昧さと不釣り合いに思われるかもしれない。
 けれど、心の機微に触れることでも、どこまでも膨らんでいくときがある。

 誰の気持ちにも届かない感覚かもしれない。でも、ぼくには確かにある。

 なじみの魚屋の通称「ぐれちゃん」がいなくなった。
わが家では、道頓堀の「くいだおれ太郎」に似ていたので、ヘルパーさんたちには「チンチンドンドンの兄ちゃん」と呼ばれていた。
 ぼくは買い物へ行くと、かならず前回の感想を素直に伝えていた。
そのうちに、ぐれちゃんが対応すると、どんなに品物が残っていても、耳もとまで来て「今日はやめたほうがええで」などと教えてくれるようになった。ありがたいというか、申しわけない気持ちになった。

 ぼくにとっては、大きな痛手になった。
 でも、ぐれちゃんは神戸で自分の店を持つらしい。
良心的なところは忘れないでほしいような、うまく経営できるか心配なような、複雑な思いになった。

 店の場所を訊ねて、いつか会いに行きたいと思う。

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