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豚の競演

 新しく生えてくる体毛のほとんどが白くなりはじめたというのに、最近になり食材として苦手なものが見つかってしまった。豚のホルモンだ。
 ぼくがいつも居眠りするために通っている作業所から、歩いて十分ほど南下して橋を渡れば、そこはもう大阪市内になる。恋の行方を案じることに費やしていた二十代~三十代前半のころには考えられなかったほど、すっかり都会暮らしが板についたと思う。

 その橋を渡ったところに、昔ながらの薄暗いアーケードの商店街があり、知る人ぞ知る豚ホルモンの名店がある。以前、何度か買い食いをしたときには平気だった独特の臭みに、「うっ」となってしまった。

 でも、豚肉が苦手になったわけではない。国道沿いの馴染みの肉屋で酢豚用のばら肉を買い、市販のボトルのストレートティーで煮詰める紅茶豚はわが家の定番だ。
 本当に酢豚をリクエストすることもある。最近になって、パイナップルは入れなくなった。

 さて、水曜日の朝は、お気に入りの家事ヘルパーさんが料理づくりにやってくる。
 彼女は賢い人だ。まだ若いというのに(ぼくから見れば大方の人は若い)、相手の気持ちを察することに長けている。それだけではない。相手に合わせるのではなく、いつの間にか求められているカラーに染まっている。
なんの抵抗もなく、自然に染まっている。

 振る舞いだけではない。料理の味つけもそれほど注文をつけた記憶はないのに、いつの間にか安定して、どんなメニューでもお願いできるようになっていた。

 ある日、彼女に注文を出してみた。
「材料は事前に用意しておくから、いちばん得意なメニューをつくって!」
「わかった。それじゃあ〇〇がいいと思うから××と〇△を用意しておいてね。」などと、ストレートに答えるはずがない。
「そんなこと言われても、それほど料理上手じゃないしなー…?何が食べたいのかなー…?」と、大人の対応からスタートする。
「いちばん得意なもんやがなぁー」と、ぼくは焦れったいような演技をしてみる。
「何がいいのかなー?」
彼女は、もう一人のヘルパーさんを話の輪の中へ引きこむ。
「うまい!」

 こうして次回のメニューは、「豚の角煮」に決定した。
さっそく、午後から国道沿いの馴染みの肉屋で「脂身の少ない豚バラのブロック」を注文した。
ここまでは良かった。
 自宅へ向かって十分ほど電動車いすを走らせたとき、「あっ」とぼくは思わず声をあげた。

 それは三日ほどさかのぼった夜のこと。食通の泊まりのヘルパーSくんと、東京の兄から送られてきた選べるギフトで、ピックアップした商品を「あみだくじ」でチョイスしたのだった。いちばん欲しいものがあるにもかかわらず、ドキドキ感を味わいたかったのだ。
 候補はだし入り明太子、松阪牛の味噌漬け、東京✕豚の煮豚・焼豚セットに絞られた。
ぼくの中の格付けは内緒にして、的中のゴールに書かれた商品は「東京✕豚の煮豚・焼豚セット」だった。

 ぼくが電動車イスを運転しながらあげてしまった声の正体は、見事に重なった「東京✕豚」といまやベテランヘルパーさんと肩を並べる腕前の若手ヘルパーさんの「角煮」のダブルブッキングだった。

 三日間ぐらいは悔やんだ。
見事なまでに、時期が重なっている。しかも、肉屋には四百グラムも注文してしまっていた。
 ぼくの脳ミソは、豚肉で発酵してしまいそうになった。肉屋に注文の取り消しをすればいいのだが、そこは小心者。ズルズルと時間は経過した。

 居眠りをするために通っている作業所も、クリスマスはかき入れ時で忙しくなる。
その日、ぼくは配達の日程調整の電話かけでクタクタになっていた。あと三件ほどで一区切りつくと呼吸を整えなおした途端、頭の中で豚肉が点滅した。
そう、浮かんだのではない。まさに、点滅したのだった。つまり、東京✕豚と角煮が交互にスポットを浴びたり、陰になったりしていたのだ。

「あっ、そうか!味比べをすればいいではないか!ブッキングではなく、これは幸運な巡り合わせに違いない。なぜ、ぼくはこんな簡単なことに気づかなかったのだ!」
 時間の長さでいえば二~三分ぐらいだろうか、心は大波に揺られていたけれど、周囲に悟られたくはない。電話をかけ終わり、帰宅するまで平静を押し通した。

 しかし、生きることはなんて面白いのだろうか?何も状況は変わらないのに、考える角度が少し変わっただけで、見えるものが、感じることが、これほどまでに違ってしまうとは…。

 体裁よくまとめることも、今日はアホらしい。

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