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マイスタイル

 朝から青空だったので、ツーカーの仲の青年ヘルパーのMくんと夕ごはんの一品を買い出しに、市場まで歩きました。
 ぼくのページへ初めて立ち止まっていただいた方もご察しの通り、トップに挙げた写真は電動車いすのコントローラーを操作する左手で、もちろん、本人です。
 あちらこちらで説明しているはずですが、ぼくが電動車いすで走るではなく「歩く」を使い続けるのは四・五キロという設定がカップルの仲良く歩く速さとほぼ同じということと、どんなに急いでいてもスピードは上がらないようになっているし、いつもお散歩気分だから、ゆったりした心もちになるからです。
 話の寄り道をすれば、急ぐときにかぎってどの信号が目の前で赤になってしまう悲しさを背負いつづけていました。
 人との出逢いに恵まれてきた分、日常のちょっとした場面では、いつもアンラッキーとぶつかり放題だったのです。
 さらに、まわり道をすれば、ぼくがある事情で一週間ほど外へ出っぱなしだったとき、移動の車から降りると待っていたかのように雨つぶが落ちてきたし、旅行へいくときもいつも「雨男」でした。
 そういえば、障害者関係の制度の基本的な変更が行われたとき、負担増に反対する集会へ東京まで行った日は忘れられません。
 たしか、二月の冷たい雨が降っていました。そう、「篠つく雨」といえば、まさにあの情景を思い出します。
 北から南から、障害者自身とその家族や関係者(冷たい響きですが、ぼくのポンコツな頭ではフィットした言葉が降りてきてくれません。とほほほほ…😢)が千人ほど集まったと記憶しています。
いくつかのグループに分かれてデモしたんですが、整理する警官が「危ないから傘をささない!」なんて圧をかけるから、びしょ濡れで全身から湯気が立っていました。
 ぼくもつき添いの若者(現在はうちの作業所を仕切ってくれています)も、安全に進めると判断したから「さして」いたんですが…。
 ある面、非日常では個人の自由が失われる現実の怖さを肌で体験したわけです。
 もちろん、統制が必要な状況であったことは理解できますが、まぁ、天災は仕方ないとして、人災が起こす非日常は宗教や思想や利潤追求だけを優先させた価値観などなどの障壁を越えて、食い止めるべきだと考えるのですが…。

 さて、成り行きにまかせて書きたいことをすべて言葉に換えたので、今日の町でのワンシーンに戻ります。
 一見するとオチャラケで、深い洞察とはかかわりなくわが家もふくめた障害者(制度上は利用者)と楽しく過ごすことをモットーにしているMくんと駅近くの商店街を歩いていると、スマホを操作しながらの女子高生が追い越していきました。
 こういう瞬間、ぼくの「ためになるイタズラ(自分で『ためになる』とは、なんとこそばゆい)心」に信号が送られ、言葉となって発せられるのでした。
 マスク越しだから、ちょっと大きめの声で並んで歩くMくんに、
「なぁ、Mは歩きスマホすることあるの?」
 急に声をかけたので、わずかに間を置いて、
「うん、たまにしていたことはあったけど、自転車で仕事先に向かう途中で歩きスマホの子が飛びだしてきて、危なかったことがあってねぇ。それからスマホを見たり、操作したりするときは道の端に寄って止まるようにしてるんですよぉ」
彼は、妙に丁寧に応えてくれました。
 その間、ぼくは女子高生の背中を目で追いかけていたのです。
Мくんが丁寧な説明をするうちに、彼女の視線はスマホから離れようとしていました。
ただし、左手にしっかり持ったままで、また歩きスマホをリスタートさせるかに思えたのです。
 もう一押しと覚悟を決めたぼくは、
「ぼくらの話が女子高生に聞こえてるかなぁ。歩きスマホは危ないよなぁ」
ダメ押しの矢を放ってしまいました。
 ここで事情がのみこめたМくんは、
「そうかぁ、女子高生のことでしたかぁ」
即座にトーンを上げてくれたのです。
 さすがに、十メートルほど先を歩いていた彼女は、ポシェットにスマホを仕舞いこんだのでした。
 
 (ここからはダークなぼくに変身するので、文体が変わります)
 商店街のスーパー前の人混みを抜けると、ぼくは悪顔をつくるための両目のすぐ下あたりにほんのすこしの緊張をもたせた。
 イタズラをやらかすための下準備だった。
 Мくんにお得意の「自画自賛」の空気をプンプンさせながら、並んで歩く横顔に話しかけた。
「あんなことするのは、ぼくしかおらんやろぉ!」
硬直の仕業ではなく、意識して彼の方へ上体を預けるように。
彼も横目でぼくを見ながら、
「あんなこと思いつくのは、このおっちゃんしかいませんよぉ」
ぼくの気持ちが響いたのか、応えてから意味ありげな流し目になっていた。

 バンバン町へ出ていたころ、ぼくと契約している事業所では新人が入ると、まず「ケッタイなオッサンのまち歩き」を研修先に入れていた。
 あのころ、ぼくは作業所へ行く道のコンビニで、若くて親切な店員さん(もちろん女性)に買いもののお手伝いだけではなく、お客さんの出入りの合間を縫って、眠気覚ましの缶コーヒーまで飲ませてもらっていた。
 それから、ヘルパーさんには作業所で待ってもらっておいて、ひとりで近くのスーパーへ行き、なじみの店員さんと世間話に花を咲かせながら、お昼のお弁当を選ぶのが恒例だった。
 
 ケッタイなオッサンの研修は、常識的な介護をイメージしてやってきた若者たちには、ずいぶんと衝撃的だったようだ。
 店へ入る前に、
「ちょっと見てほしいことがあるさかい、店の中では普通のお客さんになりすましといてや!」
説明をはぶいて唐突に言い出すものだから、研修の子はキョトンとしていた。
 一方、若者につき添った事業所のスタッフは、「恒例メニュー」に腕を組んで見守っていた。
 不安をあらわにする場合だけ、
「彼の言われるとおりにしてもらったら大丈夫ですから」
安心するための声かけをしてもらった。
 ぼくにとっては毎日のことだから、スイスイとコトが運んでいく。
 
  ぼくが伝えたかったのは、ヘルパーは介護することだけが仕事ではなくて、障害者と「まちでめぐり逢う一人ひとり」をつなぐジョイントの役割であったり、それぞれの感性にあわせて「こうありたい」という社会にむけて、手を携える間柄であってほしいという、すこしお節介ぎみの想いだった。

 想いの共有できた「ひとり」もいれば、働くことになっても別の価値観へ傾いていった「ひとり」もいる。
 正直なところ、後者の一人ひとりについては「う~ん?」と疑問を感じたり、「なんとかならへんかいなぁ…」と思ったりした時期もあった。
 でも、時代は変化をつづけている。
 過去を押しつけることは、慎むべきではないだろうか。
 
 彼らとの折り合いと接点を探す毎日がつづく。


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