アルコール物語
ブーが残念がって、ぼくのアタマをポンと叩いた。
「せっかく、ぼくはやっさんがいちばんになると信じて、一票入れたんやがな。何してるんやぁ、ホンマに」
思わずブーがぼやいたのは、共通の友だちの披露宴の余興のときだった。
らせん状になったストローを使ってのビールの早や飲み競争で、トップになった出場者と投票した人に商品が出ることになっていた。
そのころ、披露宴の主人公の彼とブーは、同じ養護学校で働いていて、一方、ぼくは卒業生としていろいろな集まりの送迎をしてもらっていた。
こんなふうに書くと、ふたりから「えらい距離を感じさせる書きかたや」と、さみしい顔をされそうだ。
ぼくたちのつながりのメインは、地域の公民館を借りて思い入れの深いミュージシャンのライブを企画したり、披露宴の主人公宅で飲み会の席をにぎわせたり、京都や大阪や神戸のライブハウスへもよく足を運んだ。
冒頭のブーのボヤキは、いつもストローでビールをイッキ飲みしているぼくを知っていたからだった。
誰でも商品はゲットしたいところ。投票する人たちはシビアで、ダントツに障害のあるぼくは「人気薄」の存在だった。
だから、ブーだけではなく、主人公宅でぼくのイッキ飲みが目に焼きついている人たちは、ほくそ笑みながら一票を投じたに違いなかった。
かぎりなく百パーセントに近く、ぼくにも勝つ自信があった。
そりゃぁ、主人公宅でどれだけイッキ飲みしてきたことだろうか、という気持ちだった。
いよいよ、スタートのホイッスルが鳴らされた。
ぼくは、いつものようにストローを前歯で軽くはさんで、勢いよく息を吸いこんだ。
ところが、吸っても、吸っても、ビールは口の中までたどり着かなかった。顔面が真っ赤になっていたのではないだろうか。
ふつうのストローなら、文句なしにトップの座を勝ち取れただろう。
だけど、らせん状だったことが、ひと筋の流れさえ阻んでしまったのだった。
ブーは苦労して採用試験に合格したとき、なぜか一番にぼくの顔が浮かんだらしく、真っ先に報告の電話をもらった。
「なんで、うちの親よりも先にかけてるんかなぁ…」
とにかく、泣きそうにうれしかった。
披露宴の主人公だった彼にも、忘れられない記憶がある。
ぼくが三十代のころ腫瘍を取るための手術後、麻酔から覚めて自然に口が動いた。
「Iくんに『成功した』と伝えてほしい」
ブーは組合が忙しいらしい。Iくんは教師を退職して、地元の障害者の作業所のスタッフとして、第二の人生を歩きはじめた。
それぞれに「ふつうの人」でありつづけたいと思っている。
もうひとつ、Iくんとは忘れられないアルコールの思い出がある。
ぼくがまだ長髪をなびかせていたころ、アマチュアの劇団が立ち上げられないか、共通の知り合いに相談に行った夜のこと。
旨い辛口のお酒を勧められたぼくは、いつものようにストローで調子よくつぎつぎとコップをカラにしていった。
施設では月一回の誕生日会以外は飲めなかったものの、ストローでの日本酒も五合ぐらいは空ける自信があった。
ところが、その日は体調がかんばしくなかったのか、気持ちよく拓郎を口ずさんでウトウトするいつものコースはたどらずに、嘔吐にプラスしてお漏らしまで突っ走ってしまった。
手足をベルトで固定しているぼくは、こういう状況に陥るとどうしようもなくなる。
Iくんも、知り合いも障害を持つこどもとのつき合いも長くて、介助には慣れていたけれど、一生のうちでもかなりトップクラスの後悔にさいなまれる場面になってしまった。
あの夜から、ぼくはどれだけ飲んでも、意識がなくなりかけていても、心の底から酔えなくなった。
精神的にしんどくなって、記憶が曖昧になり、気持ちを言葉に託せなくなってしまっていた。
書きたいことがあって、気分も悪くはないのに、読み返すと納得いかなくて、今晩も何回か「書いては消して」をくり返した。
いよいよ、フェードアウトの夜が来てしまったかと想い、「最後」をどこかで意識しながら書きはじめて、やっとここまで行を重ねられた。
ほんとうにホッとした。
もうすこし、noteをはじめたときの書きたかったテーマが残っている。
ほんとうは「もうすこし」ではないけれど。
年末だからといって、梅田の地下街の新潟のアンテナショップで、よく買っていた「麒麟山」のワンカップをサポーターさんが差し入れてくれた。
自分からは飲まなくなってひさしい。
でも、今夜だけはゆっくり飲むことにしよう。
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