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今朝の風景から②

 定刻をすこし遅れて、訪問入浴の人たちがやってきた。
いつものようににぎやかに。
 今朝は、若者(男性二人)とベテラン看護師さんのチーム編成だった。
 みんな顔なじみなので、よりリラックスした雰囲気で、これからの三十分あまりの時間がとても楽しみになった。
 
 あいさつを軽く交わしたあと、Aくんがぼくの名前を言いながら「暑いです。ホンマに暑いです。腹が立つぐらい暑いです!」と、勢いよくつづけた。
ぼくが「何が腹立つほど暑いんや?」と聞き返すと、「なるほど」と「それがどうしたんやぁ」がごちゃまぜになったような感触の言葉が枕もとに届いた。
「朝からセミがうるさいんです。シャーシャー、シャーシャーと暑苦しいんです。ゆっくり寝てられませんよ」

 彼の言葉を察すると、暑苦しさの根源はクマゼミに違いなかった。
 それから、浴槽の組み立てやお湯の調整といったお風呂そのものの準備と、検温や血圧測定といった入浴前の体調確認を役割どおりに手際よく進める三人の会話を楽しく聞きながら、ぼくの意識は別のゾーンへ移っていった。

 ぼくにとって、夏の暑苦しい存在(昆虫)といえば「メマトイ」を避けてとおることができない。
 「メマトイ」にピンとこなくても、雨の近い日に草木の生い茂ったあたりを歩いていると、コバエみたいな虫が顔のまわりをまとわりついてきた経験のある人は、かなりおられるのではないだろうか。
 あの虫たちの総称を「メマトイ」というらしい。

 手足が思いのままにならないぼくにとって、あれほど厄介な存在はなかった。

 すくなくとも、五年ほど前までは「ひとりの時間」を楽しむために、作業所帰りに電動車いすで歩く日もよくあった。
 
 ぼくにはケッタイな性癖があって、そのせいで「メマトイ」とも頻繁に遭遇していた。
 まちをうろついていて、分かれ道に出逢うと、ついつい狭い方へ入って行きたくなるのだった。
 電車を利用すれば、自宅からでも大都会のターミナルまで三十分あれば十分だといっても、分岐点で狭い道ばかり選んでいると、古びた遊歩道やドン突きの空き地に出くわすときもある。
 そんなとき、どこからともなく奴らが襲来するのだった。
 無抵抗なぼくを嘲笑うかのように。

 それでも、ぼくはひるまなかった。
 ぼくの性癖についてはあきらめていたし、「ひとりの時間」を楽しむことと比べれば、メマトイとの遭遇は年末ジャンボを十枚買って、三百円しか返ってこないほど、当たり前でちっぽけな不運だった。

 あまりに鬱陶しいので、腹立たしさを五七五にぶつけようとしたけれど、力量不足で形を成さないまま思いはつきてしまった。

 このあと、台所にわいたコバエの話を書こうと思ったが、冴えない話ばかりつづくので、気分が萎えていく。
 
 こんな日常のウダウダを書きつづけて、不特定多数の人ではなく、誰かの心の襞に届くことに憧れてしまう。

 強がりなのか、本心なのだろうか。
ぼくにもわからない。

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