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背景

 最近になって、いよいよ気持ちの浮き沈みが激しくなり、日常の会話の行き違い(マスク越しなので、おたがいに聴き取りにくい)や、わずかな感情の齟齬で長い間に培ってきた関係が崩れそうになることがある。

 おととい、ほかのサポーター(ヘルパー)とは別格で、多面性のある以心伝心の絶妙な間柄を折り重ねてきたCくんと、ほとんど会話せずに一夜を過ごしてしまった。
 ここではあまり深く書けないというか、ぼくの体調と精神状態が維持できるのなら、ふたりの多面性をなんとか残しておきたいと思いつづけてきた。


 いつものように、適当なことを言いながら夕食をすませた。
市場で買ってきた昆布巻が中途半端にまずかったから、「もっとまずかったら味見してほしいけど、残念ながらぼくが責任もって全部食べるわ」、こんな感じで。
 彼は彼のペースで食器の後片づけをして、歯みがき道具を持ってぼくのそばへ戻ってきた。
「歯ブラシの毛先が乱れてきてますねぇ。買い替えどきですねぇ」
いつもの低い声に、ぼくもいつものように応えた。
「軽い歯周病になりかけたやん、あれでコリてなぁ、毎食後かならず磨くようになったし、ほんで消耗が早くなるんやわぁ」
ここまでは何事もなかった。
彼がつぎに返した言葉に、ぼくは引っかかってしまった。
「かならず食後の歯磨きはしてください」
ぼくには上から目線で、威圧的に届いてしまった。
そのときはがんばって、ふつうを装って応えた。
「そらぁ、ぼくも痛いのはかなんがな」

 彼が本格的に台所の後片づけをやってくれている間、ぼくはラジオを聴いた。
 最低賃金で非正規労働をしながらライターをしている女性の本の紹介をしていた。
永田町まで足を運んで、国会議員に直に会って社会に対するさまざまな疑問をやり取りするうちに、おたがいの立場の壁が取り払われていく過程を追った内容だった。
 ライターの彼女のフットワークの軽さと粘り強さは、他者の声に振りまわされている自分を全否定されているように聴こえた。

 眠剤を飲むために、お茶を用意してくれた。
この時期になると、いつも電子レンジで温めることになっている。というか、彼との阿吽の呼吸でそういうことになっている。
 あのとき、部屋の温度に比べて体がほてっているみたいだった。
レンジを開く音が聞こえたので、マスク越しに結構な大声を出したつもりだった。
 「今日は冷たいままでええでぇ」
それでも、電子音は鳴った。
狭い家だから声が届いていると思っていても、きっと聞こえていなかっただけなのだろう。
でも、いろんなことが重なって、ぼくは無視されているとしか思えなかった。
ただの無視ではなく、支援する側の「善意の無視」として受け止めてしまった。

 その後、がんばるはずの大便を断った。彼の一番の得意分野の清拭(体を拭くこと)も断った。
寝返りを打たせてもらったあと、いつもは声をかけるのに、下になった手がしびれたので、自分で仰向きになった。
お布団は飛んでいった。呼ぶのが面倒くさくて、ぼんやりと天井を眺めていた。
 しばらくして、彼が気づいてお布団をかけ直してくれた。ぼくは黙ったままだった。
 なかなか寝つけずに、窓が明るくなった。
朝のサポーターが来るまで、寝たふりを通した。長い夜だった。

 ついさっきまで、もうすぐ来る彼に対してどう接したらいいか、答えが出せないままだった。
 かなり巨大な誰も知らない自分を埋めながら生きてきたとはいえ、引きこもり二分の一的な生活になって、ぼくはぼくを持てあましている。
長時間、ぼくと過ごすサポーターの一人ひとりも、感じ取りかたの違いこそあれ、それまでとの違いに戸惑っているのではないだろうか。

 そういうことをひっくるめて、一人ひとりには「いま」にたどり着くまでの過程があって、たくさんの組織や個人との関わりがある。

 背景。
言葉や行動やそこに行きつくまでの意識には、かならず背景がある。
そのとき、その場で眼にしたこと、聴こえた言葉の向こう側に想いを拡げながら、今夜を過ごしたいと思う。
 おとといのことをきちんと話しても、心に留めたにしても、その中間あたりを選択したとしても、どうでもいいような気がする。

 うまく言葉にはならない。
ただ、おたがいがどんな行動をして、どんな言葉で伝えて、どんな関係になったとしても、それぞれの背景が拡がり深まっていくだけなのではないだろうか。

 呼吸のつづくかぎり、その人の価値は変わらない。

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