スーツ

その日は、朝から妙にソワソワしていた。

日本有数の庭園を誇る、島根県の美術館にいくと決めたのは午前9時頃。
朝食のバイキング会場で読んだガイドブックに載っていて、以前テレビで観たことを思い出したからだ。

僕は出張先で、以前、テレビなどで見たことのあるオススメスポットに遭遇すると、その「偶然」を「運命」のように感じてしまうところがある。

絶対に出席しなければならないセッションは午後2時からだから、今から準備したらなんとか間に合う。美術館から直接会場に向かえば

できれば、美術館ではせっかくの一人の時間をゆっくり堪能したい。

ネイビーのスーツに着替えて、急ぎ足でホテルから駐車場に向かう。

学会出張先などで観光地に行くことはあまりないし、そもそも出張先で替えのないスーツでうろつくのは気が引けるが、美術館にビシッとスーツで来館するのも、お洒落な気がして、舞い上がっていた部分もある。

僕が停めている駐車場はたしか5階だったけな?

今は土曜日の朝なのでまだ人混みも少ない。きっと、有意義な時間を学会前に過ごせる。

浮かれていた。

エレベーターを降りて、すぐに自分の車を見つけると、少し大股で向かった。

スムーズに鍵を開けると、運転席のドアから助手席に鞄を置いて、勢いよく乗り込んだ。

運転席に座り込んだ瞬間には何が起こったのか、もう理解していた。

片足を車のなかに入れた瞬間に、僕はその感覚をお尻の辺りでとらえており、頭の中で「あーあかん」っと言っていたくらいだ。

もう一度言うが、座席に腰かけた時には状況を理解していたのだ。
ただ、受け入れるには少し、時間がかかりそうだったので、とりあえず、ドアを、閉めた。

車から出て、鞄をお尻にあてて歩きだすまで10分はかかっていただろう。

出張に持ってきているスーツはこの一着。

自宅までは車で片道三時間半くらい。

研究発表は明日の午後1時から。

出雲そばはまだ食べてない。

右の頬にニキビが出来ている。

最近あてたパーマがチリチリしている。

色んな事を考えた。

多分、その間は口も目も耳も開きっぱなしだっただろう。
ただ、1日あるのだから洋服直し屋に預ければなんとかなるだろうと思いつき、少しは落ちつたほうだ。

皆さんは知っているだろうか?

鞄をお尻にあてながら歩くのはとても歩きづらいし、恥ずかしい。
腕がつりそうになりながら今度は小股でちょこちょこ歩く。

途中の婦人服屋さんのショーウィンドウが外の景色をよく反射して、写していたので、お尻を確かめようとしたが、我に戻ってすぐやめた。

ホテルに戻ると、フロントのお姉さんに不信がられながら鍵を受け取った。

部屋に入って、一安心。

つかの間、ズボンを脱いで、早く店に持っていって直さないといけない。

だが、脱いでみて、自分の手の感覚を疑う。

混乱していたからだろうか?

穴はブラックホールのようだった。

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