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巨大なもののうえに

6月中旬、所用で京都に2日間滞在したついでに色々なものを見ておいた。レタッチした写真とキャプションで今後まとまった文章にするだろうけど、その前段階の、もっと素朴な写真や思いつきや心の動きを一度言葉にしておく。


〇関東に住んでいることは、京都駅を見て回る上でのアドバンテージかもしれないと思った。
新幹線からの経路は、地理学的コンコースの断面にたどり着く。いわば地理学的コンコースに穿たれた洞窟のような経路から抜け始めた時、視線の突き抜ける距離と観測できる範囲が爆発的に増えることに毎回驚かされる。

観測範囲の大きさは、身体感覚が引き延ばされて、巨大化して歩いているような感覚をもたらしてくれて、奥の空間でさえどこか指で掴めそうに思えるし、駅を利用する人たちの動きはアリの群れのように見える。
これが在来線だと地上レベルからの入場になり、建築の大きさに身体感覚がなじまない間にコンコースの川床に放り出される。ガラスの構造物は屋根というより雲のような、手の届かない存在になってしまう。


調べてみると、東京国際フォーラムのアトリウムも高さは60mらしい。あの空間にも背筋が伸びるような感覚はあるけど、この場にはそれをゆうに越えて、巨大化して見下ろしながら歩いているような感覚がある。高さを追求したのがフォーラムのアトリウムなら、コンコースで大切にされているのは遠さなのかと思える。シークエンスの核心は空間の容積の変化より、視界の広さの変化にありそう。


例えば表参道ヒルズのシークエンスは都市空間から風除室へと続き、人工照明でできた吹き抜け空間への到達と同時に終止感が漂ったあと、スロープは経済空間然として変化に富んでいない。その一方でGYREのテラスはビル群すらシークエンスの一部として取り込んでいて、敢えて登ればおもしろい。
そう考えるとカメラはシークエンスの増幅装置か。等断面が続き空間自体はシークエンシャルとはいえない幕張メッセで撮られたアルクアラウンドのPVを思い出したりもする。



環境に適応してシミュレーションのようにシンプルに動き、アリの群れと化した利用者たちの着座状況が豊かなのも面白い。非常階段の変奏であるという複雑な面白みとは裏腹に、かなり単純に、シミュレーションのように動く利用者たちが計画的にも面白い。
原さんの豪快なインテリジェンスに裏打ちされた設計だけど、人がうまく使っているのは、ここが駅という、全員の目的がうすぼんやりしているプログラムだからだと思う。当然のこととして、同じ設計はほかの用途では持ち出せない。巨大空間の中で見渡される、ファジーな情報量の躍動が醍醐味だと思った。離れられなくなるのが分かっていたので、予定通り夜まで情報量を読み解いて駅で過ごした。




田崎美術館に行った時にも思ったが、原広司の作品のガラスはただの窓とは一線を画す、別次元を持っている。それは鏡のような表情を持っていて、実空間を反射させては仮想的な広がりを作り出す。実在しない虚の空間を被写体として馬鹿正直に扱うと、虚軸のスケールまで生まれるようで面白い。白黒にレタッチすれば、時刻さえ分かりにくくなる。





⚪︎翌日東山地区で、京都駅の原体になったであろう「門」が街中を見張っているような景色に遭遇した。

1年前に京都駅を初めて見たときから、都市は新しさと古さの天秤のゆらぎの中にバランスをとってきたんだろうと理解していた。
東京駅はモダンなビル群のただ中に、皇居と向かい合って鎮座しながら古くからあるものを鎮めている。
京都駅が巨大な躯体に背負った極端な現代性は、巨大な歴史を持つ京都という土地が凍りつかないような揺らぎを与えている。


その点、京セラ美術館には混乱させられた。

第一印象もままならないうち、エントランスに作られたランドスケープが思ったよりも小ぶりで、そもそも目の前まで来たとき、向かい側の歩道を歩いていた自分は美術館を通り過ぎてしまった。実際は建築の正面に対して横向きのスロープだったけど、もっと建築正面にまっすぐ下っていくのを想像していた。

ゆっくりと潜った先にエントランスへたどり着く体験を期待していたら、思ったよりも既知のスロープという建築言語に近い、「-1階分下がる」感じの体験が待っていた。大宮前体育館の波打つコンクリート壁とか青森県立美術館の白く塗ったレンガのような堂々たるハッタリに青木淳の魅力を感じているので「1階に見せかけた地下1階」を想像していたけど、ちょっとタネが見えすぎている感。



中に入ってからは、青木淳の言う「レイヤー」の重なりの面白みが明快だった。新設された階段でもう一度1階レベルに戻るまでのシークエンスは、新旧をめくりながら進むような体験で明らかに良かった。再び浮上する時の体の動きが肝だと分かる。ただ、新設部はレイヤーの枚数が少ない分どうしても解釈しかねる。


それでも不思議な場所もたくさんあった。「空間設計が香水の調合に近づいていく」というテキストにリンクすると思うけど、青木淳がこの仕事で行ったのはその実「設計」よりも直感に基づいた機械的な「判断」に近いのだと思う。

1箇所目は、「光のアトリウム」と名付けられた、アクティビティの事実上のヴォイドになっている場所。自分の行ったタイミングでは名前の通り、いたずらに明るい部屋になっていた。ものによってはここに作品が置かれたりもするんだろうか、という想像は及ぶけれど、「原っぱ」よりもずっとラフな状態の場所。誰の意図も特になく、什器のような補助線もない。

「光のアトリウム」の写真は、オーセンティックに撮れば撮るほど古いレイヤーしか映らないように思えた。可能な限りそっけなく撮るのが空間のままを再現できるような気がした。


もうひとつは旧状態のこの美術館でエントランスだった場所。多少古めかしい空間の中にある銀色の構築物が自動ドアのサッシだと気づいたとき頭が混乱した。ドアの向こうが真っ暗で、そのあらわれには愛嬌がない。だからか、ほとんどの利用者はここのかつての姿に想像を及ばせずに通過している。


言うなれば敢えて超芸術トマソンを作るような設計だけれど、そこに「敢えて」という表現に見合うような意図はほとんどないと思われる。最終的にそういうシュールな佇まいをしている。大事なのはレイヤーがズレながら折り重なって、使う人にそう見えることで、巣立った子供の部屋が物置になったような状態が生まれている。
やったことには胸を張るんだろうけど、その状態の良い・悪いを判断するまえに成果物から手を離しているように思う。それが脈々と、巨大な歴史を持つこの建築に一時的に参画する上で、所有権を持ちすぎない関わり方だったんだろう。
過去のギャラリストたちと同じで、設計チームはその歴史における長期滞在者でしかなく、どれだけ書き込みが多くても1ページの厚みは変わらない、というような禁欲的な立場に見える。これが新築だったら、またヒンメルブラウみたいな人たちが勝ったような気もする。


化粧を急に変えたようなあしらいの空間たちとは裏腹に、差し込まれたものであるエレベータのソリッドが空間の中で少し居心地悪そうにしているのが不安定で新鮮に思えた。





⚪︎名画の庭の体験が一番判然としなかった。空間を漂う壁たちの中に建築的シークエンスを探そうとした時、どうしても天井に当たるものが見出せなかった。自分の意識がいまいち没入できず、結局のところいわゆる空間体験はできずに出てしまった。



そもそもここを訪れた時には違和感を覚えていた。自分が「名画の庭」として知っている、何も持ち上げていない列柱が並んだ空間は万博のためのもので、コンセプトは大きく変えないままここに建て直されたらしい。
なるほど、何も支えていない風の柱があれば空は近いものとして天井として見えたと思う。自分にとっては、巨大な広さの空は無限遠の遠くに見えてしまった。在来線で来た京都駅にも似ているんだろう。


自分は今回、京都の建築をいくつか断片的な切片で見たに過ぎない。きっとどうまとめても乱暴になるけれど、自分が見たものからは京都に漂い、足元に横たわっている「巨大なもの」の存在を感じ取った。
時間的な都合がつけば見ていたであろう京都芸大の新しいキャンパスもその都市計画を参照している以上、同じような感慨は得られたと思う。
京都という文化体系の一部を譲り受けて建築を作る時、どうしてもその巨大なものに付き合わされるのが煩わしくも文化的だと思う。何にも付き合わされないがゆえに、東京はアジアのジェネリックシティとして資本主義を無限に膨れ上がらせているような気がする。今後も旅行に行くたびにこれくらい思索を巡らせられたらいいな。結局自分には東京との比較で見ることしかできないと思うから、おとなしくそれをやってみる。

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