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chim↑pom展第2会場のこと

↑見てきた。あの会場でジリジリと醸し出される何かに感情を掴まれて、いま会場近くの虎ノ門ヒルズでPCを開いてそれを記録しようとこのページを編集している。あくまで自分のための記録です。

 自分はというと、第1会場に関しては3日前に見に行ったところで、その時は"道"上で行われる「公論」を目撃するのを特別な目的としていた。チケットを取らずに行ったら到着してすぐの枠はもう売り切れていて、公論が18:00-なのに仕方なく17:00-のチケットを買ったから1時間しかまともに作品は見られなかった。
 しかも"道"自体がすごく面白かったので30分以上はその高さをフラフラほっつき歩いていたし、"道"の下も会場自体がすごくエキサイティングだったので30分弱うろついていた。
 他の作品に関しては第2会場の予約のためにどうしようもないスピードで往復したくらいで、正直感想としては"暗い場所がこわかったな"くらいしかない。要するに"道"以外全然見てない。
 唯一友達に説明できるくらいちゃんと理解したのは"酔いどれパンデミック"と帰り際に見た"スーパーラット"の説明くらいで、とりあえず"道"の試みがものすごく楽しかったので友達に勧めたりもしていた。

 で、3日後に至る。フォローしているアーティストが「ここまで見てやっと完結」と言っていたので心して見に来た。ちなみに会場の場所が書いてある引換券を家に置いてくるという凡ミスもあったけど、yahoo!乗換案内で会場までの電車を検索した結果が残っていたおかげでどうにか辿り着けた(最寄り駅じゃなくて会場の住所で調べておいてよかった)。学芸員さんにはご迷惑をおかけしました。

 森美術館の託児所横のカウンターで説明された通り作品は3つで、どれも「スーパーラット」にまつわるもの。いくつかある「スーパーラット」のうちひとつが、問題児集団なchimpomの作品の中でも特別問題児だったため、第一会場とは離れてここに置かれたらしい。要は、この会場の存在はアーティストとしては不本意だということが重要。こんなにも[ごあいさつ]の文に読みごたえがある展覧会は初めてだと思った。

 最初に書いておきたいこととして、とりあえず「スーパーラット」の取り組みに関しては自分としては一部懐疑的ではある。"社会から排除の圧力を受けても屈しない、都市の野生"としての姿は確かにネズミが象徴しているし、chimpomという「口に出すことすらはばかられる→口に出すことで社会(の秩序)に対するカウンター的立場、つまりこの集団の運動の一部に含まれることを意味する」言葉を名乗るこの集団のスリリングな在り方の肖像にはふさわしいと思う。
 でも、だとしても剥製にする…?自分たちの肖像を殺すのって、アーティストたちの頭の中にある、初期衝動以外のエネルギーが止めさせるはずじゃないのか。
 あとは純粋にかわいそうだなとも思ってるのかな。そもそも剥製自体が倫理的な行いではないからこういうことになってるんだろう。既に亡くなっているネズミを持ち帰って着色する、みたいな方向性ならもうちょっと理解しやすかったかもしれない。捕まえるときエリィさんたち普通に嫌悪感むき出しだし。
 まあ書いておきたいのはこんなところ。実際こういうカウンターカルチャーの集団に「一切隙のない回答」としての作品を見せられても、それはそれで何かが破綻してるんだと思う。だってそもそもカウンターカルチャーがカルチャーの「隙」から膨らむものだし。「気に入らないものがある!何か言わずにはいられない!」「伝えたいことがある!そのためにはこういう手段しか自分たちには信じられない!」というエネルギーは誰にも奪えないものであってほしいし。



 で、とうの作品はどんなものだったのか。問題児として扱われたのは体が黄色くて頬っぺたが赤く、しっぽが稲妻型になっている「スーパーラット」、要するにピカチュウみたいな作品で、その剥製と捕獲映像、もうひとつ特別に製作された映像の3つが展示されていた。

 「スーパーラット」という初期の作品はさっきも書いた通り、都市の中で排除された者に対する、chimpomとしてのまなざしを顕在化した作品。忌み嫌われている被排除者を人気者風の見た目にすることで不条理に対する見方を変えようとするもので、とりあえずchimpomとしても単純な悪ふざけでピカチュウみたいにしたわけではない。
 森美術館としては、そのパクリ的な文脈の正当性を理解はした上で、知る権利と表現の自由のバランスをとるためにchimpom側と色々協議をしたらしい。ポケモンの著作権元が「こんなの作られたらピカチュウの名誉が毀損される」と言い出しても仕方がないし、リテラシーの低いお客さんに見られて名誉棄損的な見方が広まる可能性を考慮して、「見たい人だけ見られる」第二会場をおき、そこに展示することを提案した旨が会場入り口に書いてあった。だからこそ撮影禁止だったわけか、と途中で理解した。
 ちなみに、この問題に対するチンポム側のはらわたが煮えくり返ってる感じは結果的に森美に置かれた新作版の「スーパーラット」が金ピカであることに表れている。

なんちゅう皮肉。写真もブレブレだし。
 とにかく、この集団がとってる態度に対しては誤解をしないのが難しい。会場の楽しさに目がくらんでた自分には「ハッピー」みたいな気分の表れに見えていたし、なんなら「道」という作品自体も「たのしーー!」として受け取るのは想像力が足りていないかもしれない。ひとまずこのあたりの経緯は、自分にとって「知る権利」「表現の自由」が目の前に現れた初めての経験として今後も覚えている気がするし、こんな文を書いている時点で自分も当事者になっているのかもしれない。


 1時間の鑑賞時間中、自分は30分弱を特別制作の映像に費やしてしまった。内容自体は「スーパーラットが森美術館から第二会場へ移動する視界」と「全然稼げてない中年アングラ芸人のインタビュー(風?)映像」の2つが切り替わりながら進んでいくもので、これがすごかった。
 この映像の衝撃的なのはまず、アングラ芸人がけっこうすごいことを言うところで、テレビじゃ流せないような言葉が流れてくるシーンがいくつもあり、会場に常駐している警備員が気の毒になるくらいの毒っぽさがある。だから、この映像が作られるためのストーリーを理解しない人にはただの下品な映像に見えてしまう。
 アングラ芸人の話の内容はどれも強力。「携帯を契約していないため、wi-fiスポットを探してねこのyoutubeを見ている」とか、「昔から強度の近眼で、どんなバイトもうまくいかなかった」とか、「新宿の公園で長渕剛を歌っていたら警察に止められて歌手になることを諦めた」とか。どこまでが真実かは分からないけどリアリティは十二分どころじゃなかった。どうやらアングラ芸人のひとは劇作家としての顔もあるらしい。

 こういう凄みのある話がここで挿入されている理由は、「ネズミ」の境遇を人間界のものとして翻訳するためにある。ピカチュウに似せられた「スーパーラット」は社会的な圧力から森美術館の本会場を追い出され、ぜんぜん関係ない、普段森美術館が所有してるのかもわからない(って学芸員さんが言ってた)ビルの1階に行きつく。ネズミの視界は四隅が黒くなっていて、六本木-虎ノ門の間で色んな脅威を映す。たとえば車とか、道路の側溝とか。
 アングラ芸人の語る凄みのある内容を重ねながら狭い視野でネズミがどうにかどこかへたどり着く様子を見ることで、chimpomがわざわざ映像を制作するほど「何か伝えずにはいられない!」な気分になったことが理解できてくる。映像自体はchimpomの外のクリエイターに依頼したものだけど、この演出もかなり冴えていたのもこの映像にインパクトを足している。というか、この冴えた演出がなかったら制作の意図やストーリーを正しく理解できず、ただの「スーパーラット・エピソード0」として捉えちゃうところだった。


 ただでさえ社会に排除されてきたchimpomが、手を差し伸べてきた森美術館にも結局切り離されるということが詰まったこの会場のいきさつを追っていると、本当にクラスの問題児が先生に説教されているところを思い出す。自分の記憶の中を思い出しても、問題児は必ずしも毎回問題を起こしていたわけではなかった気がする。問題児は「普段問題児である」がゆえに、先生にいちゃもんをつけられて説教されていることがけっこうあった。
 だとしたら先生にだって問題はあるじゃんか、というような、あの時みたいな不平が自分の中に宿っている。もちろんピカチュウモチーフの作品がネットの海に放たれればどうなるかは明らかで、扱い方は難しい。日を増してアートだか道具だかを曖昧に捉われがちな建築という分野を勉強しているからか、なおのことこの辺は気になってしまう。
 結果森美の会場の入り口に置かれたスーパーラットが金ピカになっていることについては、chimpom側からの最高のしっぺ返しに見える。それがしっぺ返しには一見見えない分、この集団のことを誤解なく捉える難しさを感じる。
 普段この団体のことを友達に勧めるとき「本当にちょっと悪いバンクシー」って説明すると友達が理解してくれるけど、もっと正確に捉えれば「手段を選ばないバンクシー」って感じなのかな。自分はあんまりバンクシーと関係づけて理解はしていないけど。


 結局森美術館のような団体はchimpomと完全には仲良くできないということが、金ピカの皮肉も含めて、そもそも"Chim↑Pom from Smappa! Group展"に直っていないところからも見えてしまう。はみ出し者は活動が難しいからこそ、ああいう"道"をセットしたのかな、とか思う。
 「ここまで見て完全体」という感想は、ほぼ第二会場しか見ていない自分からしてもたぶん事実なんだろうな。とはいえ、森美術館というハイソな枠組みからはみ出してしまったしろである分、前衛アーティストとしての最前線は第二会場にある。
 なんだかサイドストーリー的な部分ばっかり味わっちゃった感はあるけど、とりあえずもう一回第一会場に行くのが楽しみになった。次は撮り鉄が持ち歩くみたいな折り畳みの椅子とか持っていきたい。夕方から書いてたのに、長々やってたら日が暮れちゃった。さむい。おわり。

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