長いキャプション_愛知県緑化センター
先日、instagramに愛知県緑化センターの写真を投稿した。3件ある投稿のキャプションには「建築然としているもの」「躯体と自然の折り重なり」「朽ちていくための構築体」とつけてある。
建築としては今までにない体験をしたが、その感慨はちゃんと写真に込められているだろうか。言葉が勝手に滑っていかないよう、なるべく簡単な言葉でキャプションを書いてみる。
内容が込み入ってきたら、ときどき江之浦測候所を対置させながらその写真に小さく追記していこうと思う。
愛知県緑化センターへは、市街地を通る道を通って到着する。「メタセコイア並木」のあたりから歩いて、センターの本館と「カスケード」へ。
建築然としたもの - 内のような外
投稿した順にキャプションをつけていく。
最初は、メインの建築である本館が埋まっているランドスケープの写真を投稿した。
アプローチは、アスファルトで覆われた歩道を5分くらい進む。
アスファルトと土が切り替えられ、それぞれの領域は分けられている。
少しずつ取られた樹々の間のリズムが独特で、野生的すぎも整然ともしすぎていない姿が時々柱やパーゴラのような建築の言語に重なって見える。ここはもともと県有林だったようで、それがどの程度デザインされてこの姿になっているのかわからないのも面白い。
本館を回り込むと、カスケードの背後に野生的な山が隆起している。視線が奥まで届かない山は、先ほどのような見せ物としての緑よりもむしろ、その迫力で序破急の「急」の部分としてシークエンスを受け止める。
古い新建築には、まだこの山の木の背が低い頃の写真が記録されている。竣工から50年が経ち周辺環境とは見分けがつかなくなっているけれど、こちらは自分たちで育んだというところがより重んじられた部分だと調べてみて分かった。擁壁や基壇に生えた根に竣工からの時間が刻まれている。
ランドスケープの下にはトンネルが通っていて、大きなランドスケープを舞台にしたシークエンスの一局面として続いている。トンネルの天井を木の根が這っているだけでなく、この建築自体が歩いているだけで五感が鋭敏になる環境だから、このトンネルは音環境や皮膚感覚が研ぎ澄まされる不思議な場だった。
建築と自然の折り重なり - 外のような中
岩盤が隆起したようなメインエントランスから、本館の低層部に入ることができる。エントランスの天井が明らかに低く暗いのは、明らかに本館の中心であるホールへのシークエンスをつくるため。
低層部では、上下左右方向へ視線が外部まで抜け、天窓からは光が落ちてくる。外に通じていないガラスは室内の景色を反射して、どこまでが建築なのか、どこからが建築なのか、この空間の実像が曖昧になる。窓を見ればバスを降りた瞬間から窓越しに見えるカスケードや背後の山まで建築のような気もするし、天窓を見ればこの空間を成立させている太陽という存在も遥かな隣人に思える。
低層部は小叩き仕上げの鉄筋コンクリートが使われ、ホールの印象は太陽の光が溜まる基壇部に近い。瀧光夫本人が「庭に上屋をかけたような」と称しているのを振り返ると、この建築は「屋根/4F/3F/2F/1F」というような切り分け方よりも「上屋/骨格/基壇」という方が正確かもしれない。実際にこの低層部は若干丘に埋まっていくようにスリ鉢状に下がっていく。
朽ちていくための構築体 - 現代発の遺跡
軽やかに立ち上がる階段を上がり、本館内の上階に進む。重厚な基壇から鉄骨の骨格がシャキッと立ち上がったと思うと、天端の近くで壁が途切れた。ガラス製の上屋が導入した光でホールの植物が育っていたことを確認するかと思いきや、ホール空間が外部と渾然一体になっていたのはスリットが屋内を外気と繋げていたからでもあると種明かしされた。さすがにハッとした。
全体に作用するパワフルなディテールがホールの植物を茂らせ、単純に見えた建築が自然環境と融け合っている。グリーンウォッシング的な緑の使われ方や、蔓性の植物にもっと露骨に飲み込まれようとするものなど、瞬間的な緑の設計はあるけれど、こんな姿の建築は見たことがない。公共施設だからこそ設計で扱っている時間のスケールが長く、それに合わせた材料選定が効いていると思う。
あらかじめ少し弱い建築を作ることで、これは1976年に竣工した遺跡が風化する過程を見る建築だと思った。これですら50年目なわけで、また50年後に見に来たい。
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