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届けたいのは、想い。

2010年1月12日。カリブ海に浮かぶ島国のハイチで起きた大地震。
それまで、ハイチという国を聞いたことすらなかった。

そんなハイチに、日本中から集まった「あなたは一人じゃないよ」という想いを届けに行きたい。



1995年1月17日。 阪神・淡路大震災。

当時、幼稚園の年長だった私が覚えているのは、母が布団ごと覆いかぶさってくれたことと、棚から落ちた食器が床に散乱していたことくらい。

私や家族には大きな被害もなかったため、関西で暮らしていたにも関わらず、阪神・淡路大震災のことなんてほとんど知らずに育った。


2010年1月11日。 15年経って知る当時の状況。


阪神・淡路大震災のことをよく知らずに育った私だったが、震災から15年ということをきっかけに、淡路島にある北淡震災記念公園へ友人と向かった。

そこで、初めて、当時の悲惨な状況を目の当たりにした。

崩れ落ちた橋、横倒しになる高速道路、多くの命を奪った火災旋風。

写真や生存者の証言、子どもたちの描いた絵、そのひとつひとつが絶望を物語っていた。
まるで絶望という名のプールに投げ込まれたように、記念公園内を進むほど苦しくなった。


そんな私の目に飛び込んできたのは、記念公園の出口付近にあったひとつのアート作品。

『piece for peace 〜ピースがピースを作る〜 』というタイトルのその作品は、世界中から届いた511の手形から作られており、阪神・淡路大震災10周年記念アートとして展示されていた。

作品の紹介文は、

私たちは、一人ひとり色も形も異なるパズルのピースのような存在です。
どのピースもそれぞれの場で大切な役割を果たしています。
世界中のピースが集まって平和が生まれます。
世界中のピースが集まって地球は輝いています。
北淡震災記念公園 piece  for peace

という文章で締めくくられていた。

絶望のプールの中にいた私に、一気にあたたかいものが流れ込んできた。

世界中の人たちが、日本のことを想ってくれている。

阪神・淡路大震災は、私の想像を遥かに超えた被災状況だった。

15年もの間、私はそんなことも知らずに生きてきた。

一方で、会ったこともない、顔も知らない世界中の人々が、日本を想ってくれていた。
その事実にとても救われた。

15年経ってしまったけど、北淡震災記念公園に行ってよかったと心から思った。


記念公園を訪れた翌日。
2010年1月12日に起きたハイチ大地震。

それまで、ハイチという国は聞いたことすらなかった。
でも、阪神・淡路大震災の被災状況について見てきたばかりだったこともあり、他人事には思えなかった。

とりあえず、募金はした。
でも、他に何かできることはないのだろうか。

そう考えていたら、一人の友人が「千羽鶴を折ろう」と提案してくれた。

ハイチの大地震で、30万人を超える人々が犠牲になった。
自分は助かったけど、家族や友人を失った。そんな人が多くいるはず。


震災直後は、世界中の国々から支援が入るだろう。
救助活動や衣食住など身の安全の確保で被災地も混乱しているだろう。

しかし、状況が落ち着いた時、残された人々は心にポッカリ穴が空いてしまうんじゃないか。

そんな人たちに、
「住んでいるところは離れているけど、あなたたちのことを想っている人がこんなにもたくさんいるよ」
って伝えに行きたい。

阪神・淡路大震災の時に、piece for peaceを通して世界中の人が伝えてくれたように。

ぎゅーっとハグをして、生きててくれてありがとうって伝えたい。


どうせ千羽鶴を作るなら、自分たちだけで千羽折るのではなく、1,000人が1羽ずつ折って作る千羽鶴にしよう。
被災地の状況が落ち着いた頃、1,000人分の想いを届けに行こう。

一緒に鶴を折ってくれる人をSNSで呼びかけたところ、想像以上の反響があり、数日後には全国紙の取材を受けた。


炎上。

全国紙に記事が掲載された日。私のSNSは知らない人からの誹謗中傷のコメントで溢れていた。

最初、状況が読み込めず混乱したが、すぐにネットで叩かれているということがわかった。

ネットの某巨大掲示板には、1,000件コメントの書かれたスレッドが100以上並んでいた。

中には、正当な批判もあった。
「震災直後のこの混乱した状況で千羽鶴を送りつけるなんて迷惑でしかない」
「震災前から最貧国であるハイチで受け取ってもらえるわけがない」
「ハイチにはブードゥー教を信仰している方もいて、ブードゥー教ではくちばしのある鳥は不吉とされているのに嫌がらせか」

震災直後のこの混乱下に行くつもりはなかったし、郵送するつもりもない。
状況が落ち着いた時に、自分たちで届けに行くつもりだった。
それを伝えることができていなかった。

でも、そもそもハイチという国について知らなすぎた。
世界の中でも最貧国であるということ。ブードゥー教のこと。
それは、私が至らなかった点だ。
それらの意見については、真摯に受け止める必要がある。


ただ、ネットに溢れるコメントには、批判ではなく誹謗中傷と感じるものが多くあった。

私の住所や自宅の電話番号、携帯の番号、顔写真、家族構成、父の務める会社や姉の通う学校。
家族がネットで購入したものなど、そんなんどうやって調べるの?というものまで。
ありとあらゆる情報が晒され、無言電話やいたずらメールが止まらなかった。

「みぃやんち行ってきた」という言葉と共に自宅マンションの写真も掲載されていた。

容赦ない人格否定や存在否定。

見なければいいのに、見ることを止められず、コメントを読んでは胃や心臓が痛くなった。

中には脅迫まがいのコメントもあって、外出するのも怖くなった。

私だけでなく、協力してくれた友人たちの情報も晒されており、自責の念に苛まれた。
けれど、友人たちは、私を責めるどころか励ましてくれた。


届き続ける鶴

誹謗中傷や嫌がらせが続く中、毎日毎日、たくさんの鶴が届いた。

鶴と一緒に、
「私にはみぃやさんの想いがちゃんと伝わっています」
「ハイチのみなさんに、想いを届けてください」
「応援しています。」

といった手紙が添えられていた。

友人たちをはじめ、会ったこともない方々の言葉に何度も支えられた。


小学6年生の女の子からも、鶴と一緒に手紙が届いた。

会ったこともない小学6年生の少女の言葉に、涙が止まらなかった。
彼女からの手紙は、10年以上経った今も私のお守りだ。


また、驚くことに、北淡震災記念公園の方からも手紙が届いた。

ハイチの大地震が起きた時、何かをしたいと思うきっかけになった北淡震災記念公園の方からの「何かお手伝いできることがあれば」という言葉に励まされた。

後日、仲間と共に北淡震災記念公園を再度訪ね、記念公園でも鶴を集めてくださることとなった。


そして、数ヶ月後、私や仲間の元に届いた鶴は3万羽を超えた。


本当に私は勉強不足だった。

ハイチという国のことを知らなすぎたし、勢いだけで行動してしまった。

それでも、この鶴たちは、みんなの想いは、ハイチの人たちへ届けたい。


ハイチ大使館へ


日本中から集まった、ハイチの皆さんへの想い。

それをハイチの人がどう感じるかは、私たちがいくら考えてもわからない。
ハイチのことは、ハイチの人に聞こう。

でも、ハイチの人ってどこにいるんやろう?
思いついたのは、ハイチ大使館だった。

2010年10月。
ハイチ大使館にアポを取り、英語が堪能な友人と共に西麻布にある大使館へと向かった。

最初、大使は、突然やってきた若者2人に眉をひそめ、
「一体どんなビジネスをしたいんだ?」と聞いてきた。

「ビジネスじゃない。
 ハイチで被災した方々に、あなたは一人じゃないって伝えたい。

 その想いを込めた日本の伝統である千羽鶴を募ったら、日本中から3万羽が集まった。

 これを届けに行って現地の方々と交流したいのだけど、迷惑だろうか。」


そう伝えると、大使は感情が溢れ出したかのように、

「迷惑だなんてとんでもない!
 そんなたくさんの人々がハイチのことを想ってくれたなんて。
 日本に来て数年になるけど、こんなにも素晴らしい日は初めてだよ!」

と、目に涙を浮かべながら、何度もthank youと言ってくれた。

ずっと秘書の方が通訳をしてくれたのだけど、

「僕は日本語はわからない。
 でも、君の想いは全て受け取っているよ。」

と。


正直、大使に会うまで、どんな反応をされるか不安だった。

それまで秘書の方とやりとりをしていたのだけど、

「実績のあるNGO団体とかじゃないと協力できないかもしれない。 

特に、個人での活動になるとより難しいと思う」

と聞いていて。


けれど、大使は真剣に話を聞いてくださって、とても共感してくれて、 

「NGOとか個人とか、そんな経歴や肩書は関係ない。
 君の想いを実現するためなら、どんなことでも協力するよ」 

「君たちのことは全面的にサポートする。
 現地での宿泊先や受け入れ先も手配しよう。」

と言ってくれた。

また、ハイチは、10代・20代の若者が人口比率的にとても多いので、 

「現地の若者と是非、交流してほしい。みんな、とても喜ぶよ。」 

と、ハイチに行くことを快く受け入れてもらえた。

心配していた宗教の件も、
「ブードゥー教では、くちばしのある鳥が不吉だということを知らなくて。
 その千羽鶴というのがこれなんだけど…」

そう言って折り鶴を見せると、

「確かに、くちばしのある鳥は好まれない。
 ただ、これが不吉の対象に結びつくとは思えない。

 何より、君たちのその想いを聞いて嫌がる人なんて僕の国にはいない!

 僕が責任を持って説明する。喜んで受けとってもらえるよ!」

という言葉をくれた。

ハイチの人が受け入れてくれた。 喜んでくれた。
それだけで、動いてよかったと思った。

そして、大使の協力のもと、2011年の4月にハイチに行くことが決まった。


コレラの大流行と東日本大震災。

ハイチ行きを3ヶ月後に控えた2011年1月。
ハイチ国内では、コレラが大流行していた。
大使から、コレラがいつ落ち着くかもわからないし、安全の保証ができないので、4月の渡航は無期延期にしようと打診があった。

渡航3ヶ月前に決まった無期延期。
そして、3月11日。東日本大震災が起きた。

いつハイチに行けるかわからない状況の中、私は日本の被災した地域へも行きたいと思ってしまった。
その気持ちを正直に大使や仲間に伝えた。

大使は、
「地震で被災した気持ちはわかる。今は日本のために動いてくれ。」
と送り出してくれた。

仲間にも、数年後か数十年後かわからないけど、コレラが落ち着いてハイチに行けるタイミングが来たら、必ず届けに行くから。
それまで、東日本大震災で被災した地域で活動してくると伝え、宮城県石巻市に向かった。


ハイチへ届いた7,000の想い

石巻での震災復興支援活動の合間を縫い、大阪の実家へ一時帰宅した際、1通の手紙が届いていた。

北淡震災記念公園の方からだ。

封筒の中には、手紙と共に新聞記事が入っていた。

北淡震災記念公園で集めてくださった7,000羽の鶴が、ハイチの国立図書館へ寄贈されることとなった。

直接届けに行くことや、ぎゅーっとハグすることは叶わなかったけど、
北淡震災記念公園のみなさんのおかげで、みんなの「あなたはひとりじゃないよ」という想いは一足先にハイチへ届いた。



10年経っても、届けたい想いは変わらない

東日本大震災からあっという間に2年が過ぎた。
石巻での生活が一区切りついたこともあり、2年も経ってしまったけど、ハイチに行こうと思い大使に連絡をとった。

2年の間に、大使は変わっていた。

そして、引き継ぎなどはされておらず、ハイチ行きの話は白紙に戻ってしまった。


なんとかして、前任の大使に連絡を取ることもできたかもしれない。
別の手段もあったはず。

でも、当時の私は、そこまで動くこともできず、石巻での仕事に追われ、
結婚、出産というライフイベントを送るうちに10年が経ってしまった。

何を言っても言い訳にしかならない。
いくらでもハイチに行くタイミングはあったはずなのに、私は行かなかった。

この10年、ずっと頭の片隅にハイチのことがあった。


みんなから預かった想いを届けに行かなければ。

でも、もう一度動き出そうとした時に、動けない自分がいた。

ネットでの誹謗中傷は、自分でも思っていた以上に心に染み付いていた。
真っ白のシャツにコーヒーやカレーをこぼしたかのように、何度洗ってもなかなか落ちない。

某巨大掲示板が閉鎖したこともあり、だいぶ少なくはなったけど、
ちょっと調べたら当時のことは10年経った今でも嫌というほど出てくる。

また動いたら叩かれるんじゃないだろうか。
そう思うと、動けなかった。

けれど、10年経って、何かが吹っ切れた。


心ないたくさんの言葉に傷付いたけれど、
その傷を癒やしてくれたのも、たくさんの言葉だ。

友人や仲間たちからの言葉。
会ったこともない方々からの言葉。

私自身が、人の言葉と想いに救われた。

10年経ってしまったけれど、ハイチに行きたいという気持ちは変わらない。

『人の想いの力』を自分自身が実感したことで、『みんなの想い』を届けに行きたいという気持ちはより強くなった。


東日本大震災をはじめ、日本国内でも多くの自然災害が起きている。
その度に「千羽鶴は迷惑でしかない」という声もあがる。

実際、石巻でも「千羽鶴をもらっても困る」という声を聞いたことはある。

でも同時に、千羽鶴が大切に飾られている場所もたくさんある。
自宅の床の間にずっと千羽鶴を飾っている人も知っている。

千羽鶴ではないけど、手作りのお地蔵さんを送ってくれた小学生の子と、何年も大切に交流している方もいる。

『人の想い』の受け取り方は、人によって違う。

石巻で10年以上活動する仲間たちや、被災した方々に千羽鶴について意見を聞いたところ、感じ方は様々だった。

私のためを思って「千羽鶴は、送りたい側の自己満足でしかない」と厳しい意見をくれた仲間もいる。

「みんなから想いを預かった以上、届けに行くのはみぃやの責任だし行くべきだ」と言ってくれた仲間もいる。


ハイチで実際に活動したことのある方々の話も聞かせてもらった。
ハイチという国や国民性に対する感じ方も、その人それぞれだった。


いろんな人の意見を聞いても、結局ハイチの人がどう感じるかはわからない。

もちろん、ハイチの人によっても感じ方は様々だろう。
迷惑だと感じる人もいれば、大使のように喜んでくれる人もいるかもしれない。


いろんな人の話を聞いたけれど、結局は自分がどうしたいかだ。


やっぱり私は、預かったみんなの想いを届けに行きたい。

「住んでいるところは離れているけど、こんなにもたくさんの人があなたのことを想っているよ」

「あなたは一人じゃないよ」

「生きていてくれてありがとう」

そう伝えて、ぎゅーっとハグしたい。


もちろん、自分達の自己満足では終わらせたくない。
現地の方々の迷惑にならないのはもちろんのこと、
少しでもハイチのみんなに喜んでもらえる形で訪ねたい。


今、ハイチは建国以来最悪というレベルまで治安が悪化している。
2016年のハリケーンや2021年にも起きた大地震など、度重なる自然災害。
政治への不満による大統領の暗殺や武装集団による銃撃戦や抗争。
外国人や女性、こどもを狙った誘拐も多発しており、日常生活が脅やかされている。

今は私のような一般市民がハイチに行ける状況ではない。
千羽鶴を届けに行くということを言える状況じゃない。

この先、いつ行ける日が来るのかもわからない。

今私に思いつくことは、募金などの支援くらいしかない。

そして、ハイチのことを忘れないこと。
遠く離れていても、気にかけ、今できることをする。


数年後になるのか数十年後になるのかはわからないけど、
タイミングを見て、みんなから預かった想いをハイチに届けに行きたい。

ハイチへの渡航へ伴い、何らかの形でご協力いただける団体や企業の方がいらっしゃいましたら、ご連絡いただけると幸いです。



【 今できるハイチ支援 】

* 国連WFP

* 国境なき医師団

* 国際協力NGO ピースウィンズ・ジャパン


最後まで読んでくださりありがとうございます。 ほんの少しでも、あなたの心に響いていたら嬉しいです。