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加藤浩次には狭すぎる

 加藤浩次とは二年間、毎週木曜日の朝に彼が司会を務める日本テレビのワイドショー『スッキリ』で同席していた。
 よく、ケンカしていた。
 というか、基本的にワイドショーは議論すると悪評が立つので(まったくもってどうしようもないことだと思うが)、僕以外の誰も意見を述べていなかったように思える。だから森圭介アナウンサーも、コメンテーターの坂口孝則さんも、もちろんたいていのことについては意見を(それもかなり鋭いものを)持っているが、森アナは立場的に進行の管理に、坂口さんは議論の前提となるデータを差し込むことにそれぞれ集中している。そうなると、少なくとも僕が出演していた木曜日の出演者で、加藤さんと議論する出演者は僕以外あり得なかった。正確に言えば、僕には(そしておそらくは加藤さんも)ケンカしているつもりはなかった。意見は合わないことのほうが多かったけれど僕も加藤さんも、意見の交換を楽しんでいたと思う。
 ワイドショーとは「世間」の「空気」を呼んで、目立ちすぎた人や失敗した人を蔑んで、視聴者をマジョリティの側に立たせることで成立する醜悪なシステムだ。それを少しでも内部から変えていこうと当時の僕は考えていたし、加藤さんも僕のこうした考えに一定の理解をもってくれていたと思う。僕と加藤さんとの「ケンカ」は大袈裟に言えばこうした信頼の上に成り立っているものだった。
 
 しかし足掛け3年目に入ったところで、僕は人事異動で着任した新しいプロデューサーに森友疑惑についてのニュースで右翼批判を自粛するように求められた。僕は拒否して、局と大揉めになった。その結果として僕はクビになったのだけれど、加藤さんはこのときも僕のことを庇ってくれていた。
 
その加藤浩次が、吉本興業を退社すること を考えているという。彼は一連の反社会組織への関与疑惑に対し、一向に説明責任を果たそうとしない上層部と、自身が矢面に立つことで美談に回収し玉虫色の解決を試みる松本人志を『スッキリ』の生放送中に激しく批判した。吉本興業の経営陣と松本人志が、ダメージコントロールを試みて形式的な経営陣の処分(減俸)を発表して批判をかわし、説明責任から逃れようとしていることは誰に目にも明らかだ。加藤さんは、これを現場の芸人たちだけに泥を被せて、会社ぐるみの反社会的組織への関与を隠蔽するための工作であると判断したのだろう(僕も同感だ)。そして加藤浩次は抗議の意思を表明するために、経営陣が引責しない限り吉本から退社することを表明した。

『スッキリ』をクビになり、最後の生放送の降板の挨拶で僕はこう述べた。「加藤浩次という男に、テレビというムラは狭すぎる」と。あのとき加藤さんは苦笑していたけれど、僕は本気でそう思っている。
 加藤さんは、僕とは違いテレビの可能性をまだ信じていた。彼の脳裏には数十年前の、もっともメジャーな舞台でもっともラディカルな実験が行われていたころのテレビへの憧れが焼き付いていて、そしてそれ以上にテレビに育てられたという自覚があった。しかしその一方で、自分がほんとうにやりたい表現がいまのテレビでは許されないことにも気づいていた。彼にはスキャンダルによって、相方の山本圭壱を葬られた過去がある。僕が共演していた頃、加藤さんは自分が再び山本と組んで理想の笑いを追求するフィールドとしてのインターネット配信の方法を、かなり真剣に探していた。

 あと、当時僕はよく加藤さんと耐用年数を過ぎた「朝まで生テレビ」のオルタナティブをつくりたいということを話していた。言論プロレスショーに特化し、議論の内容が二の次になってしまう現在の「朝まで生テレビ」を反面教師に、いつか建設的な議論ができる20代から40代を中心とした番組にできたらよいと「夢」を語っていた。この夢の番組を僕はインターネットの配信で継続的に続けて視聴者を増やしていくべきだと考えていたけれど、加藤さんはどこかの在京キー局での放送でなければ意味がないと述べていた。加藤さんはあくまでテレビ村の内部改革論者で、僕はその外部を開拓したいと考えていた。言ってみれば加藤さんは平家で、僕は源氏だった(そう言えば、僕が知り合う前に加藤浩次という存在を唯一認識していたのは大河ドラマ『平清盛』の兎丸役だった)。

「もう一段上の情報番組を目指そうよ」というのが、僕の知っている加藤浩次の(当時の)口癖だ。彼は僕らが口にするような、テレビ村の限界のことなど、とうの昔に気づいているはずだ。しかし、それでも自分の役割はこの古くて、陰湿で、でもまだまだ強大な影響力のある(だからタチが悪いのだが)村の中に居座って、それを少しでもマシにしていくことだと思っていたのだと思う。それはテレビ村への愛と、育てられた恩義を忘れられない義理堅さと、そして新しい世界を開拓するのはより若い世代だという冷静な自己評価のもたらしたものだったはずだ。

 だからこそ、加藤浩次はいま、怒っているのだ。ありったけの愛情と尊敬を込めて、テレビ村の中核の一つを占める吉本興業という会社と、そしてその象徴を担う松本人志に怒っているのだ。加藤が信じてきた笑いの力を、テレビバラエティ的な「空気」の操作の力を、自己保身と現場の芸人たちへの責任転嫁のためにだけ使おうとしている彼らに怒っているのだと思う。

 加藤浩次は鋭敏な嗅覚を持った人だ。だからもう、とっくに分かっているはずだ。彼は新しい世界を切り開くのは、もっと若い世代の仕事だと思っているフシがあるのだけど、それは自身に対する過小評価だ。だからもう一度僕は言う。加藤浩次という男に、テレビというムラは狭すぎる。

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