身体というフロンティア|最上和子
身体というフロンティア|最上和子
私のしている舞踏は自分の外側に動きの形をつくるのではなく、まず最初に自分の身体の内部と徹底的に向き合う。世界にはバレエ、日舞、フラメンコ、伝統芸能、民族舞踊などたくさんの舞踊があるが、そのどれとも違い、方向が逆になっている。それは踊りをする前に内部を見出すという大きな課題があるからだ。
身体の「内部」とはどういうことか。私の行っている基本の稽古に「床稽古」というのがある。身体の力を抜いて一〇分間床に横たわり、一〇分かけて立ち上がり、次に一〇分歩く。一行程三〇分のこの稽古で身体と意識状態に驚くべき変化が起こる(起こらない場合もあるが)。
まず身体の力を抜くのが難しい。抜いたつもりになっているだけという場合がほとんどだ。力を抜いて横たわるとは、無防備に自分を投げ出すということ。社会的な武装を解くということなのだ。力を抜くためにはそれなりの仕掛けが必要だが、ここでは割愛する。
そしてある程度力を抜いて横たわると、床ははじめは固い冷たい物質で身体のあちこちにコツンコツンとぶつかっている。しだいに互いに溶け合い、どちらが床なのか自分の身体なのか境目が消えていく。身体が床の下まで沈んでいく。場合によっては身体が暗闇に浮いたように感じられたり、深い水底にいるように感じられたり、自分の身体の輪郭が消えていったり、人によって時によって実に様々な体験をする。感覚が鋭敏になり皮膚が空気を感じる。背中の細かい筋肉が動くのがわかる。心臓の鼓動が感じられる。肋骨が波打つ。関節のわずかな動きが新鮮に驚きを持って感じられる。まるで自分ではない深海の生物のようにあちこちがピクピクと動く。震える。流れる。呼吸は止まったように静かになり、かと思えば、海鳴りのようになる。身体がたくさんのことを語りかけてくる。心地よく体が溶けるに従って、身体はだんだん水を吸い込んだ海綿のように重くなり、寝返りすらなかなか打てない。身体と床が磁石でくっついているかのようだ。
合図とともに次にゆっくりと一〇分かけて立ち上がる。横たわっているときの力が抜けた状態を維持しながら、最小限の筋力で立ち上がる。横たわっている間に重くなった身体は容易には動かない。まるでクラゲかアメーバが立ち上がろうとしているかのように困難だ。自分の身体を自分でうまく制御できなくなっている。脳がふだんほど機能しない。私はこれをとりあえず「重力につかまる」と呼んでいる。普段は脳が先行して身体をコントロールしているのに、このときは身体が主導になり脳は出しゃばるのをやめて引っ込んでしまう。どうしたら立ち上がれるのかがわからない。立てない、立てないと思う。そうすると身体が考え始める。どうしたら立てるかなと。赤ん坊が初めて立つときにも似ている。赤ん坊は頭で考えてから立つわけではない。身体が試行錯誤するのだ。カッコよく立つ必要はない。のたうちまわっても這いつくばっても、どんなにぶざまでも見た目はどうでも良い。大抵の人は四つん這いになりカラダを引き摺りながらようやく立つ。生まれたばかりの子馬が膝をガクガクさせて立ち上がるような動きになる人もいる。窓枠につかまりながらやっと立つ人がいる。途中まで立ち上がりかけて再びくずおれて床に転がる人もいる。床に貼りついたままついに最後まで立てない人がいる。ようやく立ち上がったときは、初めて人類が二本足で立ったときのようでもあり、水の中から陸に這い上がった生物のようでもあり、あたりの景色がすっかり変わっている。ただ立っていることの感動。新鮮さ。ほとんどの人は身体をグラグラさせながらやっと立っている。数人の人達がその人固有のギリギリの姿で立っている様子は、言葉にはできないほど感動的で美しい。合図によって次は「歩く」。なかなか最初の一歩が出ない。身体がつんのめったり、そっくり返ったりして倒れそうになる。海の底の海藻のように揺れている。歩きながら泣き出す人もいる。その涙はヒステリックなものではなく自己憐憫でも個人的な悲しみでもなく、泉が湧き出すようにどこまでも静かで清らかだ。これを個人の喜怒哀楽を離れた純粋感情と私は呼んでいる。稽古場の空気は一変して神聖さを帯びてくる。毎回私はそれを見るたびに胸が震える。深い海の底で行われる生命誕生の静かな儀式のようだ、と言った人がいる。見ながら泣く人もいる。人間はこんなに美しいのかと。ここでいったい何が起こっているのかと、私はずっと考え続けている。この稽古法は長い時間をかけて淘汰されて出来てきたもので、単純な稽古法ではあるが、やればやるほど奥深い。
ただ立つこと、歩くことがこんなに難しいとは。そのようにして出会う世界はなんと見慣れぬ不思議なものか。まるでまぼろしの中にいるようだ。そして赤児のようにようやく立ち上がった人間の無垢な美しさは、古い殻を脱ぎ捨てて内部から新しい命を誕生させる昆虫の羽化の姿にも似ている。一人ひとりの人間が個別でありながらともにひとつの場を形成するさまは、何度見ても感動的だ。年齢もプロポーションも一切関係ない。頭の禿げたおじさんだろうと痩せこけたお婆さんだろうと、誰もが美しい。これは決してきれいごとではない。それは名前も年齢も職業も社会性の全てが消えて立ち上がる、名もなきひとりの新しい人間だ。
身体の内部とは何か? 重力につかまるとはどういうことか? そこではいったい何が起こっているのか?
身体にはたくさんの層があり、それが複雑に絡まりあっていて一筋縄にはいかないものだが、ここではごく単純化して「重力」という一点にしぼって、そのことの意味合いについて述べてみたい。
大雑把に言って身体にはふたつの方向性がある。ひとつは外的身体。これは私たちがふだん身体と言っているもので、例えば健康とか容姿とか、仕事をしているとき、家庭生活を営んでいるとき、社会の中で一定の役割をしているときの、それに伴う身体の形や動作や習慣などを指し、これを社会的身体という。もう一方は内的なもの。これは伝統的には瞑想とか内観と言われてきたもの。あるいは芸術を生み出す母胎のようなもの。前者は目に見える身体、後者は見えない身体と言ってもよい。私の舞踏はこの内的な領域から形を作っていく。
人間は外的な世界に物量として文明を築いてきた。もちろんその裏には内的な領域の力が強く働いていたことだろう。時代が下るに従って資本主義の発展やインターネットの登場があり、目に見える量的な領域にばかり関心が向かい、次第に世界は一元的な価値観による閉じた空間になってきたように、私には思われる。その過程で無視され排除されてきたのが「身体」、とりわけ内的身体だ。今では人は健康や容姿やスポーツのような目に見えるものだけを身体と思いがちだ。内的な見えない身体を呼び出すためにまずは蓋をはずさなくてはならない。そのために私達は床に横たわり自分の身体をただ感じ取ることから始める。意識は徐々に内側に向かっていく。そうすると今まで気づかれていなかった重力すなわち「地球からの呼び声」が聴こえてくる。意識の持ち方が先なのか重力が先なのか、それはニワトリとタマゴのようにどちらとも言えない。ただひたすら身体は重く意識はモーローとしてくる。そしてついには立てなくなる。人は往々にして重力を憎みがちだ。自由な飛翔を阻むあのイカロスの神話のように。だがどうしたって人は重力には勝てない。空を飛ぶ鳥も羽を休める場所が必要だし、死ねば地に落ちる。重力に対抗したり無視したりしているうちは、人は真に自由にはなれない。実際に重力につかまってみると実に気持がいい。とても温かくゆったりとしており、ふるさとに帰って温泉に浸かっているかのよう。重力と関わるためにはまず重力を知らなくてはならない。重力のかかったこの思うようにならない身体と根気よくつき合うことで、人は末梢神経の痙攣のような束の間の自由ではなく、地球という大地に抱かれたおおらかで信頼に満ちた自由を手に入れられるのだと、私は信じている。重力は逆らう相手ではなく睦みあう相手だ。単純に言えば、重力につかまればつかまるほど社会的な自我は後退し、無意識世界や内在世界の強度が台頭してくる。頭ではなく身体が考える。気張って立つのではなくゆったりと柔らかく立つ。歩く。そうすることでトゲトゲした自意識は退いていく。自由とは大上段な外的なものではなく、内的な、あるかなきかの微細な領域にある。重力と仲良くなると日常生活が以前とは違って見えてくる。実際には、身体には重力だけではない多くの要素があるのだが、ここではひとつに焦点を絞ってみた。
身体に取り組むこと、舞踏することの素晴らしさ。それはここに述べたような過程を言葉の上だけでなく、実際に具体的に自分の身をもってダイレクトに体験できることだ。ともすると見過ごされてしまいそうなささやかな体験でありながら手応えは確固としている。神は細部に宿りたもう、という言葉そのままに、注意深く見出した微細こそが宇宙大につながる。微細を入口として入っていく身体の内部は、深く広大な未踏の大地だ。私はこの大地を開拓し耕し、新鮮な果実のように新しい人間を実らせたい。最後に私の口癖をひとつ。
「身体は人間に残された最後の土地」
プロフィール
最上和子(もがみ・かずこ)
OL・看護師を経て舞踏家になる。身体の内部から踊る原初的な舞踏を模索。現代におけるダイレクトな霊性の探求が活動のメインである。稽古場主宰のほか、公演・イベント・ワークショップなど多数。映像作品『HIRUKO』、『double』に主演。著作に『身体のリアル』(押井守との共著、角川書店、2017 年)、『私の身体史』(kindle 版)がある。
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