見出し画像

人と教育 恩師の面影  (6) 哲学、学問の師

      喰代 驥   (ほうじろ はやま)

 
 日本のフッサール研究の泰斗、喰代驥は僕の師である。僕の哲学徒としての歩みは、この師と出会うことから始まった。

 「河野與一という人がいてね。余りに学問があり、知識があり過ぎて、まとまった著書が書けないんだ。」と言って先生は笑った。河野のエッセイ集『学問の曲り角』の正・続と手元にあるのは、その言葉にほだされたからだ。師は、著作を残さなかった。論文を紀要などに載せれば十分と考えていたようだった。

 東京帝大名誉教授の出隆(いでたかし:1892~1980)が、特別講義で師の大学を訪れ、何泊か泊めてもらったと自伝に書いている。話すうちに、こんな学のある人が自分の講義を聴いていたことなどつゆ知らず、怖いことだったと書いている。また、最近のことだが、喰代先生ほど威張らない、お平らな学者を僕は知らない、と友人の一橋大学名誉教授が語り、その通りなんだけれど僕を驚かせた。

 大学に入って、「哲学概論」なる大昔からその名のある講座に魅力を感じることはなかった。大学祭(実行委員長だった)の折、学校側の担当者、いわば顧問役の助教授(=準教授、故人。中国文学者で後に東大名誉教授)と親しくなったので、哲学を学びたいが困っている、とある時話した。すると先生は、非常勤だが今度偉い先生が見えることになった、その先生に相談したら、とそう勧めてくれたのである。
 
 それが喰代先生だった。お名前も顔も知らない。最初の講義を聴き、電車で帰る先生を追いかけて車内でご挨拶した。先生は少し驚かれたようだった。だが、哲学への熱意を新しい大学で活かしたいという訴えに、「まぁ、僕の講座に出ていらっしゃい。」と仰ってくれた。
 
 やがて、先生の家へ伺って指導を受けるまでになった。ある日、学的業績で知られる教授の地方国立大学院進学を考える僕に、先生はこう言われた。それが僕の哲学研究の方向を定める言となったのである。

 「いいかい、彼だって機会があれば東京に出てきたいんだ。それからね、東京大学から新しい哲学を生み出すことはできない。東大を出た僕が言うんだから間違いない。君は自分の哲学をあくまで追究して行く方が良い。それに大学院は、僕の時代にはね、思想的問題があって行き場のない者、身体を壊した者、力のない者が行くところだったよ。最初はギリシャ語とかラテン語に時間を取られ、教授の意に沿った研究を行うのは君には合っていないし、もう時代遅れだ。修士くらいのことなら僕が教えるよ。」

 師の言は、「貧乏学者」の道を行くという中学時代の僕の志にピタリと沿った教えだった。しかし、知識論の分野で自分なりの理論に手を付けるまでは、能力的に劣るから進学を勧めなかったのではないか、という思いが頭の片隅にあったのは事実だった。

 研究会のある時、帰りのプラットフォームで電車を待ちながら、先生は僕に聞いた。
 「今日の報告はどうだったですか。」
 「随分詳しい、細かいところまで目の行き届いた報告で驚きました。」
 「だから、ダメなんです。」
 別の日、同じプラットフォームで、前と同じくホームの向こうに目をやりながら、先生は言われた。
 「今日の報告はどうだったですか。」
 「具体的で、身近な話題を中心にしてお話されましたね。」
 「だから、ダメなんです。」

 「だからダメなんです」という言葉を全く同じトーンで言われた。僕はつなぐ言葉がなくて息をのんだ。二つの発表は、全く異なる、相反する類のものである。もちろん両者ともに、かなりの時間をかけて発表に臨んだに違いない。哲学の問題というより、細かい知識の披露であったから前者はダメ、という評価になるのは分かるように思った。しかし、後者はある程度名の知れた戦前からの方だ。在野にある人で分かり易い話だったから、これもダメなの???、と真意を図りかねた。

 後者のお話は、差し引いて考えなければならない。哲学は日常生活に役に立つとか、仕事のヴィジョンとか信念や考え方を用意する。そう考えることは大切であるし、哲学の真意にも沿っているとも言える。しかし、本物の哲学研究を目指そうという若者が、身近な事柄から哲学の奥底に到達していこうとするのは勧められない。そういうことを理解するのに、僕の場合だが、10年や20年の歳月が必要だった。

 教育哲学を考えて哲学の道の足掛かりとした自分も、進学せず、企業への就職の道もなく、前途洋洋の未来からはなはだ遠い現実に直面した。大学闘争とは名ばかりと思える「ごっこ遊び」に大学生たちを引き込み落とす「思想的」人士、政治的なものとの軋轢があった。しかし、負けるわけには行かない、という思いで大学を出た。では、どうしたらよいのだ!

 苦し紛れに、私立学校の教師になる働きかけをしていた。しかし、研究には自由な時間が必要で、それが奪われるから避けなさい、と師はアドバイスした。日本哲学会に所属して研究を続けなさい、しかし、アカデミックになればいいというのではない。最新の研究成果に触れていることが大切で、自己流に陥ってはならないと言われた。もう一つ、唯物論の立場だが、よく知っている人が活躍している研究会がある、こちらも紹介しようと言われた。

 前者の日本哲学会は、アカデミーの総本山である。大学院にも行っていない、低レベルと見なされる私立大学の出身者を相手にするような学会ではないことぐらい分かっていた。そこに入れとは、本当に驚いた。「大丈夫。会長の岩崎(東大教授)だって、僕が推薦すれば別だ。」と師は言われた。もう一方の後者は東京唯物論研究会で、故仲本章夫氏(東京都立商科短大教授)が活躍されていた。

 しかし、すでに喰代先生の持っていた認識から学会というものが離れ、時代が変わっていたのである。岩崎会長は封書で「大学院博士課程か同程度の業績が必要」と文書で知らせてきた。やはりねと、ガッカリした。喰代先生には内緒にしておいたのだが、大学関係者(学校哲学)でガッチリ固める発想を何とも思わないのか、それでも哲学者の集まりと言えるのかと僕は思った。

 確かな推薦者があっても、博士課程という形式を判断の材料とするようでは、数々の生き方、考え方の可能性を閉ざしてしまう。結局、博士課程なる権威機構を作って、これを通過しなければ業績も何もないのである。利益集団化してしまって、研究者の可能性を閉ざしてしまうことにならないか。誰も不思議に思わないのが不思議であった。若い人は一生懸命、先ず上に認められようとして、その流れに順応するしかない。評価やコンペに期待するしか道がなくなる。だが、わが師はそれを嫌った。

 詰まるところ、育つ芽を摘む。本当に世界と日本が活性化しようとするなら、安易な利益集団化に気づかなければならないだろう。日本は自由社会だが、問題はその自由が誰のための自由なのかということである。内部の者には分からないし、問題に思うこともないだろうが、どのジャンルにもほぼ言えることだ。だから、日本のアカデミーの望ましくない壁を打ち破る活路は、世界に出ることしかないと考えるしかなかった。それにしてもそれは、気の遠くなるような話である。

 後者は大丈夫だった。しかし、ずっと後のことであるが、仲本先生は僕を東大出身者と思っていたと、ちょっと驚かれた。驚いたのはコッチの僕であるのだが、ちなみに彼は、東大の数学から転じて哲学の道に入った人。科学哲学や論理学を得意とし、僕とはよく飲んで、話をした。僕は、疑問を封じるお受験、学校教育の弊害や東大一辺倒の考え方、制度の危険性などを、お話したものである。

 さて、いったん断られた日本哲学会に入ったのは、僕が国際学会での業績を得てからのことだった。すでに喰代先生は亡くなっていた。推薦してくれた一橋大学教授の友人は、あなたが入るほどのものがないから意味がないと思うが、と言われた。けれども、在野で哲学を言っても信用されないし、世間に生きる身としてはと、頼み込んだ。

 大会の理事会で僕の名前が出た。驚いたと、鹿児島大の教授が駆け寄ってきて僕に言葉をかけた。彼と京都大学同期の事務局長もビックリしていたと言った。会員だとばかり思っていたよと。つまり、ボストンの世界哲学会(五年ごと)の時、彼ら京大出身者(全員博士課程を経ている)とは、同じホテルの一室で飲み明かしたのである。彼らに電話で呼ばれた忘れ難い愉快な一夜だった。僕も大いに世界哲学会の議論についてしゃべり、京大出身者たちの肩ひじ張らない、自由な人柄、人間関係に大変感銘したことがあったのである。

 それはそうと、師が、自分の課題、テーマをつかんで研究せよと言われても、なかなかそこに至らない。学校教師にはならなかったが、いつの間にか、小・中・高生を教育する現場に居続けて20年近く経っていた。自分の経験した学校の勉強、先生たちの教え方と、今現在の彼らに共通の問題。そこには何がある?

 問題は根深い。そう考えることがあっても、解決する術がない。まだ、哲学的にこの問題をつかむことができなかったのである。勉強不足であった。そうこうするうちに思わぬところから、この問題を哲学的に、つまり根本的、本質的につかむ手立てが生まれた。

 それは一人で新潟の出雲崎付近を旅する電車の車中のことだった。田園を中心に拡がってくるその景色から、感じるままに思い浮かぶものがあった。その時、何故このことを思い浮かべたのだろう?という疑問がわいた。「想起」という言葉があるが、何故このことが想起されたのだろうと、はたと思い返した。

 帰宅してから、何日も何日もこのことを考え続けた。こうして、認識論の一部とされる知識論に行きわたるのである。しかし、既存の知識論が僕の実践的な問題に答えるわけではない。やがて、「想起」説、ベルクソン(仏:1859~1941)の単細胞生物の分析に始まる哲学の深み、そこから皮膚感覚の問題、脳科学などと、道筋を見出し、知識の閉塞性が問題であることに気が付いた。その構造を理論にして、これを打破するには何が必要となるかを考え、国際学会に論文を提出したり、論壇に立ったりした。
 
 僕が唱え到達したのは「閉塞知論」であり、僕の理論である。大学の研究者には気が付きにくいし、日本のアカデミー評価は得られにくいかも知れない。だからこうした議論は出てこないだろうと思う。しかし、英国のケンブリッジ・スコラーズ出版が、国際哲学論集に閉塞知に関わる僕の論文を収めるに至った。

 細かい話のようだが、論文の審査の際、あちらのドクターに「古代ギリシャ哲学」とは何を指しているか等、日本では通ると思われる表現に問題を突き付けられた。挙句は米国のある教授の証言を確かめなければならないなど、厳しいものがあって、国際水準とはどういうものか教えられた。日本から、あるいは狭い世界から抜け出す意識をそそられたのである。

 「閉塞知」論だが、喰代先生が生きていられたら、教えていただきたいことが様々あった。僕はこの論をさらに学術的に深めるつもりでもう大分経つのだが、心から御礼したい気持ちを込め、師のご霊前にご報告したいエピソードがある。これをもって、充分とはほど遠いけれども、この項を終わりにしよう。喰代驥先生の有難い導きを思いつつ。

 「君の報告を聴いて、シェーラーもそこまでは考えていなかったと思ったよ。」と数点あげて、背の高い彼は真顔で僕を見つめた。国際哲学会の参加者と職員、大学院生たちであふれるボルガ川の観光客船の上であった。彼とは、ケンブリッジ大学出身で、同大学で教えるイランの国立研究所の所長タバコ―ルである。

 マックス・シェーラー(独:1874~1928)は、知識社会学の創始者でタバコールはその研究者であった。当然のことだが、知識の問題には深い知識と関心がある。シェーラーは、喰代先生が専門とするフッサールに世話になった人だ。不思議だ、何の因果なんだろうと思う。この学会で彼に評価されたことは、殊のほか大きいことに思えた。後日、ケンブリッジ・スコラーズ出版に採用された論文には、僕を招いた国際学会の主催者やタバコ―ルの働きがあったに違いないのである。

 学会が引けて、タクシーで空港に向かう彼に同乗した僕は言った。
 「君と別れるのはとても寂しくて残念だ。」
 彼はちょっと間を置き、静かに、小さい声でゆっくりと声を発した。
 「僕も同じ思いだよ。」

 (以上で終わります。僕が新設の大学に入った事情は、「恩師と友の面影」(5)で触れた。余談だが、創立50周年に招かれた初代学長の長男の方が挨拶で、大学を創った時、こういう高校生が訪ねてきたと、学長が本当に嬉しそうに家族に話をしたと言われたそうな。理事をしている後輩から、「先輩のことだとすぐ分かりました。そうですよね。」という電話が入った。内容を聞いて僕のことに間違いなかった。「紛争」で汚れ切った大学で、学長の思いに応えられなかった僕や学生たちを思いだす。新たな大学建設に燃えていた荒れる前の大学である。学長が僕と会った時のこと、先生の嬉しい思い、そういうことが手に取るように分かる、そういう年齢になった。今回は特に、僕の、知識、文化、教育の諸問題への議論の参考にして欲しいと考えています。)


サポートは本当に有り難く!そのお心に励まされ、次の活動への大きなエネルギーになります!