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ぼくの思う、人と求める政 哲学ある人物

 「人と求める政」で、取り上げたのは、現代の「人間」論ではない。これはもう大きな本にしないと手に負えない大テーマだ。だから、あれれと思われる人も少なくないはずのものだろうし、どうしてもことの一面に過ぎなくなる。それだからと言って通り過ぎると、哲学的にものをとらえようとする身には寝心地が良くないものとなる。だから、書く。

 こだわらねばならないのは、「哲学」を忘れて平気になっている時代のことだ。声を大にしてこのことを言わねばならぬ、と思っている。

 1932年(昭和7年)5月15日、海軍青年将校たちが内閣総理大臣官邸に乱入し、内閣総理大臣犬養毅(1855年~1932年)を殺害した。この5.15事件は、1936年(昭和11年)の2.26事件と共に、現代の若者でも知っている事件だと思う。もっとも、実際にどの程度若者たちに知られているか分からないし、いささか自信がないのだが。

 尾崎行雄(咢堂、1858年~1954年)と共に憲政の神様と言われる犬養首相を暗殺した。しかしそれだけでは済ますことのできない、非常に大きな、複雑な日本支配層の相というものが理解されないといけない。もっとも、自分も理解に達したとは言いにくいものがある。だから、一度は時間を使って、深く考えて見なければならない事件だと思う。

 ここで犬養首相暗殺を出したのは、一般に銃弾を浴びる直前に、犬養さんが「話せばわかる」と言われたということである。言葉は悪いが、高校までに教わっているのはこの程度であり、試験があるとしても、何年に起きたかということを暗記していれば大抵の学校ではよいだろう。下手をすると教師も深めて授業を用意していないかも知れない。せいぜい、深刻な不況の問題、ロンドン軍縮条約のことに注意を払うくらいが精一杯というところか。

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       申すまでもなく上は犬養毅である。

 だが、僕が噛み締めたいのは、犬養さんが、この年の5月1日に話したというラジオでの演説「内憂外患の対策」で語った次の言である。

 〈侵略主義というようなことは、よほど今では遅ればせのことである。どこまでも、私は平和ということをもって進んでいきたい。政友会の内閣である以上は、決して外国に向かって侵略をしようなどという考えは毛頭もっていないのである〉 (林 新、堀川 惠子『狼の義 新 犬養木堂伝』・2019年KADOKAWAより)

 「どこまでも、私は平和ということをもって進んでいきたい」という信念だ。犬養さんは、侵略主義は遅ればせのことだとも言っている。第一次大戦(1914年~1918年)やロシア革命(1917年)、米騒動(1918年)はとうに知っているし、1925年の男子だけの普通選挙や治安維持法についても同様だ。そういう時代状況の中での犬養暗殺だから、5.15事件は政党政治の終わりを示したとか、以後日本は戦争への道まっしぐらだった、といった分かり方がされる。むろん間違いではないのだが、ここで抑えておきたいことがあるのだ。果たして次のことが理解されたのだろうか。

 「どこまでも、私は平和ということをもって進んでいきたい」という犬養さんの思いは、実は程度や質が様々とは言え、多数とは言えないまでも当時迄の政治家が抱く日本国家への、いやそれに止まらず世界への思いであり、早い話が哲学を伴った政治ということである。

 目の前の利害をあぁだこうだと言うだけではなく、常にそう言うに足る哲学的信念を涵養し、貫いたということである。

 理想の言葉を述べることが、哲学を持っていることにはならない。耳障りの良さではない。信念あってこそ信用される、というのでもない。狭い料簡で、大きな過ちを犯した歴史を、僕たちはイヤというほど知ることができるではないか。

 犬養さんは「決して外国に向かって侵略をしようなどという考えは毛頭もっていない」とキッパリ言い切っているではないか。戦前のあの時代ではない今、戦争と平和でずっと揺れてきたその後、議論をすれども、この認識が共有され、深まっていると言えるだろうか。必ず、敵を作って、その怒りで、支持を得ようと必死の面が目立ちはしないか。哲学的思考が全く働いていない。むろん責任逃れにキュウキュウとする。

 つまり、政治から哲学がはく奪された5.15事件だったと、僕は言いたいのだ。しかし、ことはそう単純ではない。犬養さんが最後だったというのではない。真っ当に学び、考え、実践する人が途切れることはない。

 例えば安倍晋三(1954年~2022年)元首相。祖父の岸伸介(1896年~1984年)元総理とのことがよく言われるが、もう一人の祖父がいる。1946年(昭和21年)に亡くなった安倍寛(あべかん、1894年山口県生まれ)衆議院議員である。彼は、「金権腐敗打破」を叫んでいたし、非戦・平和主義の立場を貫き、1938年(昭和13年)の第一次近衛声明に反対、東條英機らの軍閥主義を批判し、大政翼賛会の推薦を受けずに衆議院選挙に立候補した人だった。僕はあまり知らないのだが、これだけでも体制に唯々諾々し、右顧左眄(うこさべん)するような人物ではなかったと言えるのではないか。自己の勢力を伸ばすことに於いては非常に大胆で、お友達政治と揶揄(やゆ)される様な、狭い世界の持ち合わせに過ぎない甘ったれの人物ではない。

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            ↑齋藤孝雄氏の写真です。

 余計なことだが、晋三氏の父親が岸伸介氏の娘と結婚したのは、寛氏の死後のことである。

 話がこうなれば、1940年2月の、いわゆる「反軍演説」で有名な斎藤孝夫(1870年~1949年)衆議院議員のことに触れないわけにはゆかない。この演説をしたせいで、彼は議員の座を追われることになるのだが。

 むのたけじ(1915年~2016年)と申しても、60代以下の人でも知らないかも知れない。彼は戦中朝日新聞の記者であった。昭和20年(1945年)8月12日、日本がポツダム宣言を受諾することを知りながら、号外も出さずその情報を漏らすまいと必死になったマスコミ関係者、朝日新聞の一員であった。彼は敗戦後直ぐに新聞社を退き、やがて故郷の横手市(秋田県)に戻って、死ぬまで独立独歩で手書き新聞「たいまつ」を発行し続けた人だ。

 むのさんは、斎藤孝夫の「反軍演説」を議会で直接聞いた記者である。彼は齋藤が死ぬ気の演説を行っていると思ったそうである。つまり、1940年2月2日のこと、帝国議会衆議院本会議の壇上に登りいわゆる反軍演説「支那事変処理を中心とした質問演説」を1時間半にわたり行ったのだ。その迫力たるや、小柄な斎藤が全身で行った名演説であり、速記録があるので、僕らはすべて知ることができる。

 僕は斎藤孝夫が如何にして上京したか、如何にしてアメリカに渡り、病を得て帰国し、それを克服したかなど、『回顧七十年』(中央新書)で知っていた。例えば、特高警察に虐殺された作家小林多喜二(1903年~1933年)や、諏訪から出て東京女子大学学生だった伊藤千代子(1905年~1925年)たちの反戦を貫いて殺された人々と立場は違えど、偉い人がいたもんだなぁと思っていた。

 それだけに、この演説を本会議場で聞いたむのさんの精神が、そこに強く共鳴したことをとても重く、有難く受け止めるのだ。なお、伊藤千代子さんについては、今年映画が上映され、現代人の心を大きく動かした。(映画「わが青春つきるとも 伊藤千代子の生涯」)

 むのさんは、晩年千代田区の日本プレスセンター10階の記者会見場にて次のようにお話されたそうである。

 《15年戦争(1931年の満州事変~1945年の第2次大戦敗戦までの15年間)
を始めたのは誰であり、何を狙ったものか、戦場でどんなことをしたのか、その悪行に対する罪を濯ぐために言葉だけでなく物心両面で謝罪する》ことを訴えたという。

 今日、取り戻さなければならないのは、こうした優れた先人の精神が、我々に伝わっていることへの自覚である。例え、5.15事件で失われたとは言っても、完全に無くなってはいない、という確固たる自覚である。

 (個人主義、共生思想、平和と戦争について、書いていますが、今回は前回の続きになります。前回予告は、次回以後ということでお許しあれ。)

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