喪失のビジョン


酷い近視で、常にレンズに依存している。もはや、就寝直前と起床直後に現れる、ボヤけた視界のほうが不慣れで、しばらくそのままでいると「酔う」。

明瞭な視覚という支えを失った身体を実感しているとき、「失う」とはどういうことなのか、考える。

幼少期から、人物の顔を覚えることが苦手だった。それが「相貌失認」という症状として、ある程度ポピュラーであることを、去年の秋頃に、初めてググって知った。

自分の場合は、表情とその意味は読み取れるし、覚えられないだけで区別は可能なので、顔だけの静止画像から人物を判定することが難しいものの、実生活で困る場面はない。

友人が、大学最後の春休みに、美容整形手術のために、韓国に行くらしい。電車に乗れば、二重整形と医療脱毛の広告で、壁が埋め尽くされている。

毎年のように、気まぐれな引越しを強行する私を知っている友人から「生活に責任を持ちたくないんだね」と言われたが、まさにその通りだ。すぐに引越せると思えば、近所付き合いも、職場の人間関係も、苦にならない。

こうも身軽であれるのは、若さ故の特権だと思うが、若さの正体は知らない。

生まれた場所に骨を埋める覚悟のような、置かれた場所で咲く他ないとでも決断しているような、未来志向の確固たる意志を持っている人に、強く惹かれる自分がいる。

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