pregnant nurse 2017

Uから電話が掛かってきた時、私はサイゴン川を目前に、アルコールが入っているのかいないのか分からないくらい薄味の缶ビールを啜っていた。向こう岸には、高層ビルが建ち並んでいて、ライトアップまでされていて、それが反射して水面でキラキラと揺れる光の粒が、昼間の川の泥の色を完全に忘却させるので、暗闇の威力を再認識していたところだった。

宿泊していたホテルに隣接するファミリーマートで購入した、コーンフレークをキャラメルで固めたようなスナック菓子が、歯と歯の間に確かに未だ張り付いていたけれど、驚いた私はほとんど反射で電話に出た。

半年ほど連絡を取っていなかったものの、相変わらずUは透明な恐怖に囚われていて、具体的には、世界が恐ろしくて部屋から出ることができず、丸一日何も食べていないものだから、お腹が空いているのに、部屋の中には食糧が皆無だから、何も食べることができなくて困っている、という内容の相談をされた。

よりによって異国に滞在している今、そんなことを言われても、成す術がある訳がなく、おかしいから笑ってしまいそうになるのを堪えて、深呼吸をした後に「部屋から出るしか」と言ったと思う。私には、どうしようもない問題のうちに、ユーモアを見出してしまう、悪い癖がある。受け入れられなさと、受け入れたくなさと、受け入れるしかないという現実が、ぐちゃぐちゃになって、笑うしかなくなるのだ。

真面目を装った私の発言に対して、Uはお決まりの特大の溜息をついてからすぐに「ごめんね」と言った。何に何を謝罪しているのか不明だったが、そういえばこういう独特な会話をしていたことを思い出して、私は温かい懐かしさに包まれた。

結局、Uの問題解決のための会話からは脱線に脱線を重ね、ファンタジーとリアルを行き来しながら最終的にリアルに帰り、今日は何をしていたのかと尋ねられたので、私は言葉を紡ぐために、一瞬過去の自分に戻った。

私は今ベトナムのホーチミンにある病院でボランティアをしていて、今日も早朝から夕方まで休みなく動いていた。

戦争で散布された枯葉剤の影響で、ベトナムでは未だに障害を持った子がかなり多く誕生しているらしく、私がお世話になっている病院は、その中でもかなり重度の障害を持つ子どもたちを受け入れて、共に生活をする施設だった。

私は彼らの食事やケア全般のサポートをしたり、ボールなどの遊具を使用して彼らを楽しませることをしているが、他のスタッフと言葉もろくに通じないので、役に立っているというより邪魔になっている気がしてならない。しかし、何やかんや、ここに来て今日で丁度一週間が経った。

今日は別の病院から一人の幼女が移ってきて、というのも花柄のワンピースを纏っていたから恐らく女の子で、身長から推測するに3歳か4歳か、とはいえ発育が遅れているなら年齢はもっと上かもしれない、とにかくそのくらいの子が、空いていたベッドに寝かされる一部始終を、偶然に見た。

手足は今にも折れてしまいそうなほどに細く、喉にはポンプ式の簡易的な人工呼吸器が装着されていて、自力で寝返りを打てず、声も出せない、その瞳は、きっと不安のすべてを凝縮した涙でいっぱいになっていた。

淡いピンクの制服を身につけた、下腹部がメロンのように丸く膨らんでいて妊娠しているであろう看護師が、その天使の額に頬を擦り寄せ、涙に口付けていた光景が、写真のように鮮明に、幻影のように曖昧に、脳裏に焼き付いている。

今ベトナムにいることや、病院でボランティアをしていることを伝えて、何故そうしているのか説明が求められた場合に、何も答えられないのが気まずいと咄嗟に判断して、私は「ただ川を見ていた」と言った。嘘ではない。

Uが「それきれいなの」と尋ね、私は「とても汚い」と答えた。それ以降、何を話したのか全く覚えていないけれど、早く帰国して会いたいと思ったことは覚えている。

すっかりぬるくなってしまった残りのビールを草むらにすててから、急いでホテルに戻り、帰りの航空券を取った。たったの15歳である自分のことを、その幼さ、幼さ故の突拍子もなさを、初めて愛おしく思えた。


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