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感想文:『存在論的、郵便的』東浩紀より

大学院で東浩紀さんの『存在論的、郵便的ージャック・デリダについて』を輪読した。感想レベルで思ったことを。

まず非常に雑ですが、概観です。
東によると、デリダの<声>に関する後期における着眼点や考察は、<声>の定義を、主体を「今ここ」へと中心化するものではなく、むしろ主体を撹乱し脱白させるような声、つまり、安定した主体を徹底的に批判するという思考性に着目している。
その上で、以下の二つに分類し、後者を指示する。一つ目が、システムを強化する権威的な声、主体を安定化させる声、超越的シニフィエー形而上学システムを支えるフッサール的な声。ここでは非世界的存在は認められない。
二つ目が、システムを絶えず脱固有化する別の声、つまり人を無意味さに突き落とすような、主体にヒビを入れる声。超越的シニフィアンー否定神学システムをひらくハイデガー的な呼び声。ここでは声の地平に回収されない非世界的存在がただ一つだけ、「世界」全体の循環構造の対応物として認められる。

これらの考察から、デリダは次第に「その声がどこから到来するのか」に注目する。そこで登場するのが第三の声だ。このデリダ的な<声>とは、形而上学システム、否定神学システムをともに脱白する契機としてある。東は、非世界的存在を二つ目のハイデガー的な声では<単数(つまり神)>として考えているが、デリダは<複数的>に捉えている点に差異があると整理している。

この複数性とはどういう意味なのか、それこそが<郵便的>に関わるポイントである。非世界的存在の複数性とは、個々の情報がもつ速度のズレ(よくわからなかった)によって、引き起こされるという。
ここで隠喩されるのが、「電話telephone」である。遠くにいる恋人に手紙を書き、国際電話をかけた時、目で認識する目の前の手紙と、耳から聞く国際電話にはタイムラグがある。目とみっみとがそれぞれ違う時空を知覚しながら「今ここ」=現前性を作り出している、ということだ。つまりハイデガーの<良心の呼び声>という「今ここ」とは違う別の時空からの呼び出しではなく、複数の時空の「ミックス」によって時間性が脱構築された状態を、<郵便的>という(あってるかな)。

とっても難解な本であるが、デリダしかり、東がこの<郵便的>という言葉のなかで語りたかったことは何か。つまり<郵便的>という言葉を与えることで、実は国際電話や手紙でなくとも、常に我々が他者や社会と接するときには、<隔たり>があることに気づく。コミュニケーションをする限り、<隔たり>がある。そのことをついつい、私たちは忘れがちである。かつこの<隔たり>をできる限り無くそう、消滅させようとしたのが近代とも言えるだろう。しかし<隔たり>は究極に狭くなろうと、消えることはない。

かつ<隔たり>こそが、思考をかきたてる。想像力をかきたてる。不可能だからこそ、人は縮めようと、近づこうと試みる。それがあらゆる想像力であり、他者との関係性だと思う。
そして<隔たり>を通って、他者と呼応できたときの豊かさは計り知れない。その時私は、自分を抜け出すことができているとも言えるだろう。自分だけの世界から、<隔たり>を知ることで、世界に、社会に、他者に向かおうとする純粋な働きがあるだろう。

難解で、難解だが、きっと東が、わざわざデリダと向き合ってまで、この<郵便的>について探究したことは、まさに「他者の声をどう聞こえるようにできるのか?」ということに取り組みたかったからではないかと思う。それは自分だけの探究ではなく、この社会として他者の声が聞こえる社会をどう実現できるか、という探究ではないかと思った。

私は、デリダの<郵便=誤配システム>の東解釈に、カタリバでインターンをしている時、青春基地を立ち上げた中でずっと共感している。(めちゃんこ論理にも、話の展開にも飛躍があるんだけれども)、ブルデューの社会再生産を壊すのではなく、もはやピラミッド自体が無意味になるような多元的な社会を目指したい(というか崩れてきていると思う)。そして人と人の関係性が、学校空間や教育行為を通じて<誤配>されることで、この社会の分断の問題を超えたいし、他者への関心を育みたいし、<想定外>を引き起こしたいのだと思っている。自分に対し、高校生たちに対して、誤配は他者の声を聞こえるようになるのか、本当になにを育てるのか、そういう実験だ。


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