見出し画像

“怒り”から考える、政治とカルチャー

今日は、名古屋で開催された25年目になる「授業改革フェスティバル」に行ってきた。200人を超える先生と生徒たちの授業や研究発表。数々の教材展示。休日に当たり前のように、先生と生徒が同じく集い、それぞれの持ち場で発表をしていた。保護者が出す100円のコーヒーや、当たり前のような空気感、そういう一人の人物や団体だけで起こした場ではない、積み上げられた歴史に嫉妬感もある、なんだこれは!と。
実行委員は、愛知県私立学校教職員組合連合とNPO法人アスクネット。この私教連とは、私学の教員の労働組合であり、私授業料が支払えない私学の生徒のための運動から始まり、現在は、よりよい教育や授業改革を目指し、若手教員を中心に、日頃から勉強会を開催しているそうだ。昔遊びにいったときには、建物には未だにプラカードが廊下に立てかけられていて、埃をかぶった革命の匂いがした(笑)

フェスティバルの最後を締めるシンポジウムには、愛知私教連の特別顧問・寺内さんと、ゆとり教育仕掛け人寺脇さん、そして森友、加計学園で有名な元文科省事務次官の前川さんが登場した。
さてここが重要なんだけれども、前川さんが登場したとき、会場はどんな反応になったか。拍手だった。司会が仕切る前に、会場に姿を現しただけで、拍手が起こった。ちょっと違和感が残った。

シンポジウムの中でも、なかなか過激な言葉が飛び交う。内容ははっきり言ってめちゃめちゃ面白かった。本当にめちゃめちゃ面白かった。でもそれはまた次回。過激な言葉が飛び交うときに、どんな反応がおきたのか。拍手だ。歓声だ。笑いだ。気持ちよさそうな、高まり。・・・うう、違和感だった。
何故なら、その拍手は、<感情>だからだ。貧困、排除、差別、疎外、抑圧、様々な社会の負と戦おうという起点がどれだけ正しくても、感情によって、それらをさばいてしまうと、それがどこに向かうか自分で批判しにくくなる。だから、わーって高まったものは、思考停止だと言えるんじゃないか。それはいつの間にか暴力になることだってありえないだろうか。
つまり運動論への違和感は、社会の負を題材に、対立させ、言説によって盛り上げることで、人を<感情>から突き動かし、社会を変えることだからだと思う。感情は、火をつけるのは難しくないが、適切な方角を与えるのは極めて難しい。・・・これらを、わたしは一旦「政治」と呼んでみたい。言説によって、人を動かすこと。政治とはまさに運動論的だと思う。

考えている間、ずっと頭に浮かんでいたのは、映画『アメリカンヒストリーX』のエドワード・ノートン演じる兄のことだ。これはアメリカ南部における黒人の差別を主題に、白人の兄弟を描いた1998年の作品。まさに主人公の兄は、彼自身に起きた負を、その怒りのままに運動論を展開したカリスマだった。彼の怒りは、多くの人を掻き立てた。弟さえも。感情によって。それが何を生んだのか、、、。

「怒りは怒りしか生まない」、そうやって言うのは簡単だ。
でも怒らなくちゃ生きられない時もある。どれだけ鎮めようとしても、湧き上がって止められない感情もある。多くの人に出会うほど、世界を知るほど、そうするしかできない、やるせないことがある。怒りが、怒りしか生まないことなんて、敵をつくることが自分を苦しめることなんて、言葉では分かる。分かるけども、存在するのだ。自分の中にも。

だから私に『アメリカンヒストリーX』が教えてくれたのは、怒りの向き合い方だと思う。貧困、排除、差別、疎外、抑圧など。マイノリティーや、弱者に寄り添い、向き合うことは大事だが、それを力にしてはいけない。自分自身に起きたことだろうが、誰かのことだろうが、それを力にしてはいけない。
わたしは、そもそも怒りが原動力ではないタイプだから困っている訳ではないけれども、怒りが原動力になってしまったときも、仕事とは、変換、置換をして明るさをつくっていく、当事者が乗り越える回路をつくることだと思う。そうありたい。不や課題と、自分の手足に冷静な距離を設け、明るさを生んでいくことをしたい。まあ簡単にいえば、せっかく事を為すなら、かっこよく、クールにやりたい。ダサいのはいやだ。
そして私はこれを、「カルチャー」だと思っている。感情にのせて、人を同じ方向へ動かすものが「政治」だとすれば、たとえば怒りとの向かい方が多様なものがカルチャーだと思う。方角は自分で探せ。方角こそがセンスだ。そして向き合い方だって、それも自分自身だ。今日と明日でも違うんだけども。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?