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「共感」との向き合い方。前回の回答として

人間固有の「異常すぎるほどの共感力」とどう向き合うかー。
今の仕事のおかげで、これまでの自分の小さな人生のなかでは、体験しなかったし、出会うこともなかった深い、苦しみを知った。なるべく平常でふるまおうとしていたけれど、激しく動揺したし、自分もすごく苦しくなった。自分までがこの社会を嫌いになりつつあったし、無気力にもなった。

そして最近は、なんども涙が溢れてしまうほど嬉しいことがあった。この出来事を通じた大切な出会いに心から感謝をしているし、何度も心が揺さぶられる歓びを経験した。ほんとうに何度泣いただろう(笑)

・・・この全く真逆の感情は、同じ出来事からなる。ここまで一喜一憂している、ある意味巻き込まれたような出来事に対して、自分に生じた葛藤を、前回のnoteへの回答として書き留める。ただ、今も問題は解決されたわけではないので、慎重にしなくては…。出来事について、ではなく出来事に対する自分の受け止め方、この範囲だけを書き留める。


1、これは決して善意ではなく、<中動的>な出来事であること

なかなか「解決」という状態が想像しにくいほどの状況では、とにかく諦めないことが肝心ではあったと今思う。忍耐と、もう長すぎるほどの目線で、ほとんど信じ込ませるように自分で自分を論破して、諦めから逃げること。

でも、それを今日まで葛藤を続けられたのは、間違いなく自分の力ではない。目の前に大切な人がいたからであり、自分から引き受けたというよりも、彼女のパワーに巻き込まれるようにして、いつのまにか問題を引き受けてしてしまっていた。そのパワーは、苦しみのような負の力ではなく、むしろ、こんな状況でなぜまだ持てていられるのかと不思議に思うほどの<明るさ>をもつ。
苦しいことだからこそ、何故引き受けたのだろうとと思うことが無かったわけでもなく、そういう時、自分はこのパワーに突き動かされたとしか説明できなかった。
つまり、世間から見れば、大抵私に対して「偉いねえ」と敬意を向けられることになるが、これは本人の内発的動機に突き動かされたのであり、もはや受動的ともいえる関わりだと思うのだ。

だから、自分だったら死んでしまっていたかもしれない場所に拘束されながらも<明るさ>をもつ本人のことを、心から尊敬していて、心から出会えたことが嬉しいと思っている。そして私が関われたからこそ、解決した事実も一歩一歩生まれており、絶望的な状況から霧が晴れたときの計り知れない歓びも知ることができた。彼女や、彼女を通じて出会えた、心の底からかっこいいと思える大人たちとの出会いには、感謝しかない。

2、二つの矛盾という立脚


この過程の中で、私は、自分の<共感力>の強さを知った。そして共感力は、世の中の誰もが持っているものではないことも知った。
だから共感力の強さは、私の目であり、私なりの世界の見方だと思う。共感力との向き合い方は、これからも自分の葛藤であり、同時に役割なのだと思う。そう思うと、だいぶ自分自身の特徴と生き方がチューニングされてきている感じがしてきた。

そして同時に、やっぱり男の子的な「意思」も捨てきれず、強く意図に導こうとする力も自分の中に存在する。共感してしまうからこそ、相手を突き放してしまう自分も、冷めた目で上から見てしまう自分もまだまだいる。どこかで自分と線引きして認識してしまう他者もいる。

そう思うと、私は共感力だけでは仕事はできないと思った。子どもの家の早川さん、特にゆずりはの亜美さんと出会い、彼らのように深刻で過酷な課題を「仕事」として続けることはできないと思った。なぜなら、今こうして一人一人と向き合うことは、その過程で1人でも多くの人を助けることが目的ではなく、それを通じてこの社会や人間について理解したいという探究心がベースにあるからだ。これからも多くの出会いのなかで社会構造を観察し、豊かな社会づくりの仮説を積み重ねていきたいと思う。

もう一つは、この出来事が受動的あるいは中動的な関わりであるからだ。私はたまたまこの仕事をしているおかげで彼女と出会い、彼女に突き動かされたにすぎない。万人に、あるいはひどく気持ちがねじれてしまっている子どもに、根気強く向き合えるかと問うと、限界を感じる。

「子どもと貧困」にかかわる仕事は、仕事からの報酬では成り立たないと思う。報酬を求めてしまうと、報われない瞬間のほうがきっとほとんどを占めているし、パッピーエンドはほとんどないから、むしろ辛くなるだろう。わたしを振り返れば、彼女の目をみはるほどの一つ一つに変化に、一喜一憂しているから、報酬的すぎる。仕事の場合は、異なるかかわり方が必要なのではないかと思う。私はついつい感情移入してしまいそうだ。
そして何より、重苦しくて強い負の力に打ち勝てるほどの、ハピネスやパワフルさが足りてないだろう。強すぎる共感力は、世の中で隠れてしまっている「忘却された人」たちを見つける力はあるが、同時に自分がきひずりこまれてしまう吸引力に弱い。亜美さんと、早川さんからみなぎるパワーは尋常ではなくて、家族がいたり、人生を重ねているということだけでは、説明しきれない圧倒的なものを感じた。

・・・私にとってしか意味はないけれど、こうして自分が立脚したい場所を見つめ、一つ一つ解き明かしていくことは、ほっとする作業だ。限界も、特性もまた一つ見えたのだから、自分なりの目と共感力で、社会を見つめて、生きてみたい。
思えば、平田オリザさんの60歳の誕生日の席で教えてもらった「月の話」が、わたしの生き方なのだとここまで書いて思った。「月から地球を観察するように、同時にその一つ一つの生物が何をしていて何を感じているかを想像する。解像度を上げたまま、俯瞰せよ」みたいな感じ。ささっと答えを出したり、形を作らずに、相変わらずよく分からない仕事をしてしまっているのは、そういうことなんだろうなぁ・・・。(苦笑)

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