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野生展-Wild: Untamed Mind

中沢新一が手がける21_21の展示「野生展」。
高校生のときから、私がリスペクトする3本指にはいる天才こと南方熊楠を取り上げるというから、これは行かずにはいられないよ!

中沢新一は京都学派系の文化人だ。哲学ゴリゴリの世界では、ちょっとファッション的だよねと言われたりするけれど、とにかく思考を愛していて、少年のまま感があるところが好きだ。21_21の今回の企画も、これは哲学的論調だが、アカデミックでは受け入れられくい、、、が示唆深い!感覚的に同意!というものだった。熱っぽいポエムがよかったから、引用しておく。

人間みんなが同じ世界に生き、同じような体験をして、夜見る夢も同じようになっていく現代に、まだ管理され尽くしていない、まだ飼いならされていない心の領域が、どこかに生き残っている。私たちはそれを「野生の領域」と呼ぶことにした。この「野生の領域」に触れることができなければ、どんな分野でも新しい発見や想像は不可能だ。

野生。冷静に定義をしてみたい言葉だ。いい言葉!

西洋で発達した近代科学では、あらゆるデータを「因果関係」によって整理します。Aが原因になってBという現象が起これば、AとBは互いに因果関係で結ばれていると考えます。ところが東洋で発達した仏教ではそのように考えません。Aがなりたつためには、表面的に関係深いように見えるBばかりではなく、表面にあらわれていないCやDやEも、潜在空間でつながりあい、影響を及びしあっていると見えます。これを「縁起」と呼びます。世界は「縁起」の複雑なネットワークでつながりあい、全体運動をしているというのが、仏教的な「縁起」の考え方です。

青春基地のビジョンは、最近、特定した課題を解決するために処方箋を打つという考え方から、ありたい社会のための「状態」を描こうといする方向に移行しつつある。

背景はまさに、<因果関係>ではない<営み>という状態を見据えているつもりだ。たまたま私の目に入り、特定された課題ー例えば自己肯定感や意欲の低下は、一つのBという現象にすぎない。現象だけをつついていたら、例えば、どうしても濡れてしまう天井も、ただ塗り替えることしかできず、雨漏りという原因あるいは建物の老朽化に気づけないかもしれない。簡略化すればそんな感じ。あるいは「仕事が忙しい」というお嫁さんの仕事が減っても帰省しないのは、嫁姑の複雑な関係性があるからかもしれなくて、最初の現象だけを除いていたら見えないネットワークが背後にはあるはずだ。つまり現象を発見したとき、重要なのは原因を突き詰めることではなく、どんなネットワークが形成されているかを観察することだと思う。

この飼いならされた心を野生化するとき、脳内では「因果的」結合様式が壊されて、「縁起的」ネットワークの働きが、心的活動の前面にあらわれてくるようになります。「能力」は高まり、それまで見えなかった物事の真実のつながりが見えるようになる。新しい発見や発明は、そのような状態の心(脳)において、はじめて可能になるというのが、熊楠が考えていたことです。(略)そういう状態でおこなわれる発見を、熊楠は「やりあて」と呼びました。

初期衝動的なものなのかな。デューイ的な同心円状の経験概念は、まさに「縁起的」なものだと思うし、ベンヤミンが「遊び」を重視した背景には、ここに近いものを感じてしまう。<創造の源としての野生>というか。

「縁起」によって活動する野生の心(脳)では、通常の論理で考えると矛盾していたり、互いに排除しあうことになるものが、矛盾なく強制しています。たとえば「生」と「死」は、わたしたちの通常の思考では、たがいに同居を許さない背反しあう現象です。

この辺りもある意味、デューイ的。神 vs複数性、経験 vs 暗記、近代 vs ポストモダン等。そのあらゆる世の中の二項対立そのものを疑うこと。ただ二項対立は自分のなかにはまだ整理できていないから難しいね。

以上。

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