見出し画像

『MOMO』の引力は、<物語>の力

ぐわ、ああこの感覚、ってなった。
1ページ目、すごく懐かしかった。円形劇場の景色が次々思い出されてくる。2メージ目、3ページ目、びっくりした。こんな文書なのか、こんなに主観と客観をまぜてくるんだっけかと面白くなった。たとえばモモの説明。

「はっきりしたことは言えない、名前はモモとかなんとかいうそうなーーこういう話でした。」「そのうえに古ぼけたぶだぶだの男ものの上着を着て、そで口を折り返しています。長すぎるぶんをきってしまうのはいやでした。」

この言葉を話しているのは、語り部なのか、モモと知り合いなのか、もはやモモなのか。この「いやだ」という言葉は、「そうモモが思っていました」という客観的な言葉とは思えない親近感があった。

ページをめくるたびに、どんどん入り込んでしまう。
今回『MOMO』を読んで感じたことは、<物語>の力だ。小さい頃の自分が知らず知らず魅了されていたこの本の、凄さをグイグイと感じた。言葉にするならば、今日『MOMO』を読んで、私が考える<物語>の定義とは、「"誰か個人がつくったものではない"という感覚を抱くこと」だと思う。
エンデはきっと天才なんだろうけれども、それはこの物語を創り出したからではなく、ちゃんと降ろせたからだという意味で天才だと思った。完全に感覚で、感覚を書くのはなんとなく躊躇があるけれど、エンデのエッセイとかにあるエンデの意見を『MOMO』は超えているなあと、『MOMO』はエンデにおりて着たんだろうなと素直に思った。

<物語>の力を一番感じた名シーンは、子どもたちの遊びによる、コルドン船長たちの冒険だ。忘れ去っていたくらい長らく使っていなかった何かがぐーっと思い出されてしまって、以下のフレーズで感動して、まさかの早朝から泣きそうになった(笑)

「諸君、」とゴルドン船長は言って、ひとりひとりを感謝の気もちをこめて見わたしました。「ついに成功した!」船長は口数のすくないひとでした。みんなはそれを知っていましたから、その船長がいまもうひとことつけくわえたことに、とくべつの感銘をうけました。「諸君のことを、わたしは誇りに思う!」

なんてかっこいいんだろうと(笑)
そしてなんて至福なんだろうと・・・(笑)遊びとは、みんなの心がピッタリと一つにシンクロしたときに、でもみんなで創るから冒険が始まる。みんなが違うから心が動く。この(私的に)名シーンは、そういう湧き上がりがある気がした。

言い換えるならば、『MOMO』は、<時間>のはなしと読むことはもちろんできるけれども、それはさらに言えば<生きる>ことについてであり、そして変化球なまとめになるけれど、その<生きる>とは、他者だということ、人生は他者だということを教えてくれている気がした。

けれど時間とは、生きるということ、そのものなのです。そして人のいのちは心を住みかとしているのです。
時計というものはね、人間ひとりひとりの胸のなかにあるものを、きわめて不完全ながらもまねて象ったものなのだ。

<物語>も、遊びも、創造も、自分独りだけでは始まらない。私がたった一人で本を読んでいるとき、それは本の登場人物や、エンデやその世界のなかに共にいる。
誰より、モモは、独りではなにも始まらないことを知っていたんだろう。だから、モモはみんなのために、でも自分のために、時間どろぼうから、<時間>に刻まれている、内在している<物語>や、遊びや、創造を取り戻したんだろう。みんなに会いに行ったんだろう。

そう感じたとき、今、『MOMO』をみんなで読み直していくことにおいて、私はそれを時代を編み直す一人ひとりの探求や現代社会批判としてではなく、「みんなで読む」という行為自体をすごく大切にしたいなと思った。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?