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古典的パーツの美学

「ラ」系自転車における美の探究

 ランドナーやキャンピングに代表される、フレンチクラシック系の自転車は、読者諸兄がよくご存知のように、今なお固定ファンが多い。かく言う私も同じであって、ランドナーと呼ばれる自転車に出会ってから三〇年以上が経つけれど、いまだにこの車種を凌ぐほど惚れ込んだ自転車はない。今日びのフレームに乗せてもらうと、推進効率などを中心にその性能の進歩に驚かされるけれども、手元に置いておきたいのは、どうしても、「ラ」の系統の美女なのだ。
 何かに惚れ込む、ということは人間にとって神秘的とも言える謎であるようだ。その対象が人である場合、それは愛というような文字が似合うような温度感があるけれど、物体の場合は、ちょっとまた違う。ウェットでもないし、身体的快楽でもない。そういう見返りがあるわけじゃない。素晴らしく美しい自転車に乗っている、というような自尊心ぐらいは与えてくれるだろうが、フェラーリ250GTOに乗っているわけじゃないんだから、効果のほどは知れている。
 さても物体に対する愛情というものは解析困難なものである。ただ、なぜ「ラ」や「キャ」がほかの車種と違う美しさを持っているかは、部分的ではあるが、ある程度は説明可能でもあるように思う。そういうことを考えているだけで、拙著の『自転車フェチの独り言』というような本が、でき上がってしまうのだ。     

 乗り物の構造にはさまざまなものがあり、外皮が応力を負担するようなモノコック構造は、現代の旅客機やF1が代表的とされている。これに対して、その乗り物の全体に比して細い鋼管を使用し、それを組み合わせて構造とする工法が昔からある。レーシングカーの一部や、羽布張り時代の航空機なんかがそれだ。もちろん古典的な自転車も含まれる。炭素繊維でできた最近の自転車は、むしろモノコック構造への移行を示しているように思われるが、対極にある「ラ」系のフレームは、鋼管スペースフレームの一種であると言って支障ないであろう。 
 クロムモリブデン鋼やマンガンモリブデン鋼といった、高品位な鋼管素材がレーシングカーのフレームに使われることもある。が、その接合部分まで、美的配慮をもって仕上げられているフレームは、やはり「ラ」系ぐらいのものである。  
 それは、フレームという骨組みが、力学的構造であると同時に、ボディシェイプでもあるからだ。鋼管スペースフレームのレーシングカーのボディがいくら美しくても、それはある意味では外皮に過ぎない。失礼な言い方をすれば空力的なハリボテでもある。しかし古典的な自転車のフレームは違う。ラグやロウの盛り方までが美的要素のひとつなのだ。 

 そういう骨格=ボディ構造が、フレームと異なる部品として現れているものがキャリアなのだ。ランドナーにおいては、キャリアはフロントのみである場合が少なくないけれども、ツーリスムではリアのパニア台が加わることが基本で、キャンピングにおいては、前後にサイドバック用のキャリアまで付くという重装備になることが多い。
 キャリアもまた本来の機能は荷台に過ぎないはずなのだが、「ラ」系の自転車は、旅装しない状態での見映えも充分に考えられており、そればかりか、軽量化のため、あるレベル以上のキャリアは、素材は鉄であっても中空構造となっている。その構造を利して、一部のフロントキャリアは、ヘッドライトへの配線もその中を通している。この点は、「ラ」系自転車の構造的洗練度を示すひとつの典型事例であり、初めてこのことを知った人は、たいがい唸る。   
 キャンピング用のキャリアも、特にオーダーものは、頑丈さに加えて、シルエットの美しさも追求されている。普遍的な美の要素のひとつは、反復や縮小化や変奏であって、キャリアというものは、自転車フレームの美をさらに凝縮して見せているのである。古典的自転車フレームの最大の特長は、トップチューブが水平ということである。このラインを踏襲すべく、フロントキャリアやサイドキャリアも、その主たる線が水平なのである。    

古典的駆動系に現れる繊細さと色っぽさ

 自転車を機能させる原動機は人間なのであるが、人間の肢体は本来回転運動のために作られているのではないため、機械の根本的要素である回転を取り出すために、肢体との動作一体化を目指した部品があり、それがペダルやクランクやチェーンホイールであろう。
 内燃機関で言うと、サイクリストの脚部はコンロッドあたりまでで、クランクシャフトが自転車に於けるクランクぐらいかな、とアバウトに思う。
 このあたりの自転車パーツが使用される条件というのも、かなり過酷である。なので最近は軽量で剛性の高い中空構造になってきて、BBシャフトなどもより大径化されておる。「ラ」の時代はそこまでの生産技術をコストに見合うかたちで実現できなかったせいか、システムとしてはもうちょっとシンプルで頼りない感はある。しかし、美的には今日のマッチョな駆動系にはない流麗さやコケティッシュを、強く強く感じるのだ。
 コッタレスになってからの古典的クランク、TAシクロツーリストやストロングライト49Dやスギノ・プロダイ等は、基本的には細身であり、溝の作りこみやブランドのエングレーブなど、凝った細工も施されている。BB軸およびペダル軸と結合される両端部分は、クランク本体の太さが絞り込まれて、なかなか足首的なニュアンスがあり、色っぽい。
 チェーンホイールは、ルネ・エルスタイプの円環が連なったデザインにとどめを刺すようであるが、フォルムもさることながら、最近のよく解析されたチェーンホイールに比べて、金属そのものの質感がだいぶ違うことを記しておきたい。
 ビカビカなのだ。当時人気があったものは、アルマイトと違って、アルミの地肌をそのまま磨いて仕上げているものが多く、手入れをすると鏡面みたいによく光る。
 当時の「ラ」系は、フロントがダブルのものが少なくなかったけれど、キャンピングの場合はトリプルにするものが多く、そのためにチェーンホイールの重厚感も増した。近年まで生産されていたTAのシクロツーリストも、かつては5速用のチェーンが基本であったので、旧い時期のものはより厚みがあり、刻印も鮮明であったようだ。

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 ディレーラー、ことにリヤディレーラーについては、私などの浅学があまり余計なことは言わぬほうが良いと重々承知しているものの、自転車全体のなかで最も審美的に重要な部品であると認識されているようなので、少々ふれることを許されたい。当時のフレンチ・ディレーラーを二分していた、ユーレーとサンプレックスの銘柄はあまりにも有名だけれど、フォルムとしては、ショートケージのものを好むか、ロングケージのものを好むかがけっこう分かれたようだ。
 もちろんディレーラーのキャパシティについては、設定するレシオによって異なるので、キャンピングのような、通常ワイドレシオを前提とするような車種はロングケージのものを選ぶのが常識的ではあった。しかしそこまでワイドレシオにしなくてもいいや、というモデルの場合、キャパシティ30くらいのショートケージのものも好んで使われたようである。MTBの登場以降、キャパシティ34程度のロングケージは、むしろ普通になっちゃったくらいなので、昔のは、ロングケージと言ってもさほど大きくは感じないのだけれど。好みの問題に過ぎぬが、私はどちらかというとロングケージが好きである。ジョッキープーリーとテンションプーリーを結ぶ構造に、魅力的な線が現れることが多いからだ。
  
 古典パーツとして、個人的に特に強い思い入れがあるのは、ラージフランジハブである。
 構造上贅沢に素材を使わなければならないためか、近年はほとんど絶滅状態だ。私がいまだに5段のボスフリーを使い続けているのも、ひとつは古典的なラージフランジハブに格別な執着があるためなのだ。
 スモールフランジハブにも独特の繊細な美しさがあることを認めるにやぶさかではないけれど、ラージハブにはやはり、肉抜き穴のデザインという見せ場がある。カンパニョーロのヌーボやマキシカーのように丸い穴を開けたものは、なかなか人気が高い。その一方、あえて肉抜き穴を開けない状態で、つまり製造工程の一部を意図的に省いて、特注で出荷されたものも存在した。
 このようなラージフランジハブは、実際の効能のほどはともかく、頑丈さやボリューム感をアピールできるので、キャンピングのようなへビーデューティな車種には、けっこうよく似合ったのではないかと思う。車輪のフォルムの明瞭な縮小反復が、ラージフランジハブとも言える。そもそも人間と言うものは、円や球が好きであって、人間の人口の約半分を占める男性は、とりわけその傾向が強い。
    
自転車という機械の中の光

 「ラ」系の自転車は使用するパーツが多い。レーサーは必要な剛性を確保した上で極力軽量化を行なうとともに、競技において不必要なものはすべて取り去る。空気抵抗を増すマッドガードは付けない。競技中には、ライトなどの電装も付けない。F1に屋根やワイパーやヘッドライトがないのと同じである。
 フレンチクラシックな自転車は、明確な順位を付けない長距離耐久ランや、旅行用途を前提にして発達してきたこともあり、基本的には、天候や昼夜の変化、荷物の積載、旅先での自助努力的なメンテナンスなどを使用条件として想定している。
 パーツが多くて当たり前なのだ。そして装着するパーツが多くなればなるほど、自転車個体としての個性は出しやすくなる。人間で考えてみてもよくわかる。マラソンやテニスなどスポーツに特化したガーメントを着ているときは、おしゃれをしようとしても限界がある。パーティやレセプションでは、人は正装する。カフスやチーフを身に付け、ドレスを着る。略装であっても、ネクタイくらいは締める。
 自転車のパーツは機能が第一なので、純然たるアクセサリーとして付けられているものは、「ラ」系よりさらにクラシックな自転車において、フロントマッドガード先端にしばしば付けられた「風切り」ぐらいのものなのかもしれない。しかしながら、実際にはアクセサリー的な存在感も併せ持つことで、ランドナー全体の機能美に大きな比重を占めたパーツもあった。ダイナモでの点灯を前提としたヘッドランプやテールランプがそれらの筆頭だと思う。
    
 「ラ」系古典パーツのヘッドラップやテールランプに痺れるのは、まずそのケーシングというかボディというか、レンズやリフレクタ以外の筐体的な部分が金属でできていることである。もちろん、プラ製で金属状のギラギラ光沢を持つものもあるが、どうやら人気はいまひとつで、やはりアルミ製のビカビカ光沢ものを中心にエンスージャストの食指は動くのである。プラのほうが成形の自由度が高いし、いくらか軽量にできる可能性が高いと思うのだが、やはりアルミ製のようなラグジュアリー感はない。
 これも、人間につけるアクセサリーで考えると明快であって、何もかもプラでできているものは、やはりお子様の玩具の域を出ない。そもそも人間は光るものが好きであり、だからこそ宝石はその輝きをいっそう高めるようにカットされる。
 フレンチクラシック系自転車の美のひとつは、言うまでもなく、光りものが多いことである。マッドガード、チェーンホイール、ラージフランジハブ、リム、ステム、ピラー、キャリアなど、主要部品の多くが磨き出されたアルミまたはクロムメッキされたスチールで構成することが可能であった。マスプロダクションのモデルは、ショップでの長期間の展示を考えてか、アルマイト仕上げの部品を多用することが多かったけれど、この車種の道楽にはまり込み、部品を交換したり、フレームから組んだりするようなことになってくると、ビカビカ光るパーツの割合が不可避的に増えてゆく。
 そういう、もともと光るような物体に、電気の光が点るのが、これまた、たまらないのだ。神殿とか仏壇であるとか、礼拝の対象であるところは、やはり灯明が欠かせないのである。
     
 古典パーツと、現代のコンポーネント化されたパーツ、あるいは現代の非金属素材から成るパーツとの相違点はいろいろある。性能や質量が違うことはもちろんだ。しかしいちばん違うのは、やはり物体としての存在感だろう。
 古典パーツは、単体として鑑賞に耐えうるものが多い。そのために、当面必要のないパーツまであれこれ買い集め、決して組み上げることなく蒐集物として愛蔵してしまう事態にも至る。古典パーツは往々にして単体でガラスケースの中などに展示される。
 パーツ単体であっても、そこに美が感じられる。そのことは、個々の古典パーツの中に、美的と感じられるまでの秩序やバランスが現れていることを示している。そしてそのことはおそらく、ランドナーやキャンピングの自転車一台の全体に顕現している美の様式が、それを構成している個々のパーツにも浸透していることを意味してはいないか。
 樹木のシルエットは、ひとつの枝に中にも現れるだけでなく、一枚の葉の中にも葉脈の形態として現れる。入れ子構造。あるいは縮小された反復。もっとはっきり言えば、ランドナーや古典パーツの美の本質は、アーサー・ケストラーが『機械の中の幽霊』で示した「ホロン」という哲学的概念にかなり近接しているだろう。
 ま、ニューサイエンス的試論はともかく、ラ系自転車やそのパーツ群にわれわれがいかれてしまった理由のひとつはどうやら、全体であることと部分であることが矛盾しないことであるようだ。またラ系自転車は、ランドナー、スポルティフ、ツーリスム、キャンピング等々と車種が細分化されていっても、なお全体としての統一感を保持できている。
 マニアというのは、基本的に区別が大好きである。これは一次型、これは最終型、ほらね、ここの刻印の部分も違うでしょ、という具合である。私もそういう薀蓄に弱いところがあるのだが、「ラ」系自転車とそのパーツを生み出した思考の光や霊感は、それとはまた別種の力も帯びているように見えて仕方がない。「ラ」系の美の本質を成すものは、一種、啓示のようなものであって、マニアにも大家にも、私のような凡夫にも、区別なく等しく降り注ぐのである。

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