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510ブルーバードと私

1967年から1973年頃まで生産されていた日産の510(ゴーイチマル)型ブルーバードが、NPO法人日本自動車殿堂主催の「2023 日本自動車殿堂 歴史遺産車」に選定された。

この車が名車であることはとうの昔から知られていたことなのに、いまさら何言ってるんだかと言う感じではあるが、まあそれはいい。

人気の中心は型式名P510であった、「ブルーバードSSS(スリーエス)」で、私が1984年から1994年頃まで2台乗り継いだ車も、このP510だった。

今ではすっかり青春の思い出になってしまったけれど、当時はこれであっちこっちに出掛けたものだ。有鉛ガソリンのかぐわしい匂いも懐かしい。今のガソリンとは全然違う匂いだったんだよね。

エンジンは頑丈さで知られたL16で、SUツインキャブを装備していた。フロントにはディスクブレーキを備え、三角窓を廃したエクステリアも当時まだ珍しかった。しかしこの車の性格を決定づけたのは、マクファーソン・ストラットと、セミトレーリングアームによる四輪独立懸架で、当時まだ未舗装路が多かった国内の道路事情によく合致したものであり、1970年のサファリラリー完全優勝の原動力ともなっていた。

510は、当時の日本の乗用車生産技術が初めて欧米並みの水準に達したモデルとして、自動車史のなかでも評価されている。なるほど、それ以前にもホンダのS800やS600のような名車は存在したが、それはあくまでも「スポーツカー」という括りの中であった。

510は四輪独立懸架という足回りの優位性を広く市場に認知させた車であり、同じ機構の四輪独立懸架を備えていたBMWのセダンを意識してか、「プアマンズ・BMW」と北米では綽名を付けられていたらしい。同じ日産のフェアレディZが、「プアマンズ・ポルシェ」と呼ばれていたことと対を成している。

今では510を見かけることも稀になった。私が手放したのは1994年頃だが、その頃はまだ何とか普通に乗ることができたのだ。しかし今は絶対的な個体数が減ったばかりではなく、消耗部品の供給などに難が生じているためか、公道上で見かけることもほとんどない。多くはふだんはガレージの中にしまい込まれ、旧車イベントの折などに出動するのであろう。

昨日510の「車の殿堂入り」のニュースを聞いたせいか、夜中に自分のP510(1台目のほう)が出てくる夢を見た。

クラシックカーのミーティングに出掛けるのだが、気が付くと自分のP510がない。さんざん探し回るのだが、どこにもないのだ。そのうちに女性でも自分の車を探している人がいて、なんでもそれは「赤いトラバント」(共産圏で作られていた小型車)だということだった。

数年前から私はP510の夢を見るようになった。もう忘れたつもりでも見るのである。そして夢を見たあとは決まって切ない思いに苛まされる。自分はあの車を手放さないほうが良かったのではないか、あの車が手元にあったら、今とは違う人生になっていたのではないか、と。

そんなことを考えても仕方がないのであるが、そういう思いがいつもどこかに引っかかっているのかもしれない。

写真は1984年の初夏にY氏が撮影してくださったもので、フィルムはコダクローム64。これもまた懐かしい。

まだ20代前半だった私とP510。

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