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亡き知人を想う

しばらく音信のなかった、知人であり友人でもあった人の消息を
リアルタイム検索(ツイッター検索)で探した。2日前のことである。

某大学の名誉教授であり、請われてよく講演などに登壇していた人なので、そういう活動の様子が分かるだろうと思って検索したのである。

そうしたら、「亡くなられたらしいが詳細は分からず」というツイートがあり、血の気が引いて愕然とした。

どうか誤報であってほしいと願いながら、facebookなどの知己を通して照会していたら、昨日になって、まことに残念極まることながら、昨年の7月に病のため亡くなられていたことが分かった。

大学での門下生の人が教えてくれたのであった。

亡くなった知人は私よりは年上だが、ベジタリアンで丈夫な人で、若い頃は冬山登山や自転車ロード競技なども行っていた人だから、私よりも長生きされるであろうと思い込んでいた。

人生は分からないものである。精神が強く、心根は優しい人であったから、周囲にも心配をかけまいと病のことは伏せていたらしい。

ちょうどひと月前くらい、1月の半ばくらいだろうか、夢枕に二日続けて現れたのでやや心配していたのだが、予感が当たってしまった。

私がもっとも尊敬する知人でもあったのだ。英語のスペシャリストだが、日本語の扱いにも物凄く長けていて、無駄のない美しい文章を書く人であった。翻訳書も何冊か上梓されている。

そういう技術的側面ばかりではなく、大学者、教育者としても人を育てることの重要さを知り尽くした人であった。この人のもとで学ぶことのできた学生は本当に幸せである。私もゼミの末席に入れてもらいたかったくらいであり、知人とはいえ、師でもあった。

そして腰は低く、威張るようなところは少しもなかった。

私は今62歳だが、この齢になると、必然的に周囲に物故者は増える。統計をとれば、葬儀などに出席する回数は若い頃とさして変わらないのかもしれないが、若い頃に見送った人々のほとんどが自分よりずっと年上の人達だったのに比べ、現在では、あまり変わらない場合もあるようになった。

齢をとったからといって、人を送ることの辛さは変わらず、むしろ増してくる。『死は存在しない』という本を読んでも、それは変わらない。

私のように、「お迎え現象が第三者的視点から見える」というような場合でも同じである。哀しみはやはりそこにあるのだ。今回もその現象は訃報を確認した時点に前後して可視化されたが、今回ばかりは私も黙って見送るだけにしたい。

代わりに、門下生の一人が私にも見せてくれた、友人が学生たちのために残したメモ書き(茨木のり子氏の詩の一節)を紹介したい。偉大な人はそこにいて、少しも飾ることなしに、こういう文章を後に続く人たちに伝えて去るのである。

「小さな渦巻」

ひとりの人間の真摯な仕事は
おもいもかけない遠いところで
小さな小さな渦巻をつくる

それは風に運ばれる種子よりも自由に
すきな進路をとり
すきなところに花を咲かせる

この詩につけ加えることはほとんどない。自分もこの詩を教えてくれた友人の心に恥じぬように、残りの人生を歩いていかねばならないと思ったのだ。




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白鳥和也/自転車文学研究室
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