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自転車を通して見えるもの

自転車というものを通していろんなものが見える。それは歴史だったり、ある国の工業生産力だったり、冶金の技術史だったり、自転車市場のあり方だったり、設計者の意図だったりする。

人間だって見えてくる。どこかの壁に自転車が立てかけられていて、よく観察できる状態だったとすれば、まずフレームのサイズやサドルの高さや、ステムの長さ、ハンドルの幅などを通して、乗り手がどういう体格の人なのか、あらかた想像がつく。

サドルの高さやその調整方法、さまざま部品の組まれ方とそのバランス、カラーコーディネイトのセンスなどを見れば、乗り手が自転車をよく知っている人かそうでないかも、ある程度は分かる。

もっともそれは、自転車を一定以上の部分は自分で組み上げることのできる人の場合ではある。すべてショップまかせで組み上げられた自転車は、オーナーのセンスを語ることはあまりなく、ショップの人のそれを代弁するのである。オーナーについて語るものはその経済力ぐらいのものだろう。

かつては、自転車道楽にはまり込んだ人々の性向というものは、そのように自分で自分の自転車を組み上げるというようなことを通して、明らかになるものであった。そうしなければならないから組んだというより、自転車を組み上げること自体が愉しかったからである。

人間の場合は、裸を見るために服を一枚一枚取り去ってゆくことが興奮の極みなのかもしれないが、自転車の場合は、裸であるフレームにだんだん着物を着せてゆく、つまり部品を少しずつ装着してゆくことに恍惚を覚えるのである。この点が逆である。

しかし昨今、自転車を自分で組み上げる人の数は減った。多くの人がこれをショップまかせにする。確かに今のフレームはカーボンであることも多いから、下手に締め付けることができない。トルクレンチが必要になるのだ。何世代というのかは知らないが、プラモデルなどを組み立てることがなく育った若者は、自転車を組み上げることのハードルも高いだろう。重要なのは、それが愉しいかどうかということなのである。

かくして、巷(ちまた)には、ショップで組まれただけの自転車があふれるようになり、自転車の組み方による自己主張や表現のエネルギーは減縮した。どの自転車も似通ったようなものになってしまったのである。

また特に最近はいじることの難しい自転車が増えてきた。とりわけ部品交換に制限のかかることの多い折り畳み車などがそうである。ブロンプトンなどはそういう自転車の典型であって、変速機の型式や車輪の着脱機構などに融通が利かない。簡便でコンパクトな折り畳み機構に特化するあまり、部品の共通規格化という道楽自転車特有の美点を犠牲にしている。

そういうわけだから、街角に置かれたブロンプトンを通してオーナーの人間像を省察することは簡単ではない。そりゃまあ、高価なカストマイズが為されていれば、経済力のある人だろうぐらいのことは分かるけどね。

私個人の解釈だが、ブロンプトンやバーディなどの先鋭化された折り畳み自転車を通して見えてくるのは、オーナーというより、その自転車を発案した設計者の世界観なのだ。ブロンプトンなら、アンドリュー・リッチーの物の考え方が見えてくるということなのである。

古い世代に属するわれわれランドナー乗りのような人種は、こういう部分が苦手でブロンプトンには手を出さないケースが多い。いじくれないとつまらないのだ。恋人に新しい服を買って上げられないようなものである。

さて、ここ20年ほどのあいだに自転車の価格は大幅に高騰した。前記事でご紹介した私のダホン・ボードウォークは、2006年当時実売価格は4万円を切っていたように記憶しているが、今ではカタログ価格は8万円に近い数字となっている。単純に言って、倍である。

ブロンプトンもかつては10万円代の後半で買えた。しかし私が昨日隣街のスポーツサイクル専門店で見たものは、40万円ぐらいか、30万円ぐらいであった。少なくとも私にはとても買うことのできないような値段である。それでも、そういう自転車がショールームに5台くらいも並んでいるということは、売れるということなのであろう。

古い人間なので昔のことばかり語って恐縮ではあるが、かつては、自転車趣味を始める場合も10万円以下の完成車から始めたもので、そこから次第にステップアップすると同時に、部品の交換などで自転車をいじるノウハウを覚えたり教わったりして道楽の幅を広げてきた。ステップアップの最初の頃は、フレームをマスプロメーカーのものから、ハンドメイドされたものに取り換えるようなことを誰もが行った。

そしていろんな過程を経て、自分でフレームをオーダーし、そして組み上げるようなところに至ったのである。そこまでふつうは何年もかかるのだが、経済力に余裕のある家庭の子弟などは、最初からセミオーダーのフレームをショップで組み上げた自転車に乗れたりする。私もそういう例を高校の後輩に見たことがあるが、その自転車は数年もしないうちにボロボロの状態になってショップに入院していた。自分で組んだものではないため、愛着が湧かなかったのであろうか。私は彼が使っていた部品よりはるかに安い部品を磨いて乗っていたので、彼のひどく扱われたトーエイを見たときにはかなりのショックを受けた。しかし、そういう人もいるんだなということを学んだ。

なんでもそうだが、自転車もまたそれを扱っている人間のことを伝えるのである。一種のメディアである。最高級グレードの部品を装着したロードバイクは、その人の経済力や見識や自転車道楽への愛着を語ると同時に、高級品に対する強い志向も示す。軽四のワンボックスに乗る人は「私はこれで充分」と思っているだろうが、メルセデス・ベンツに乗る人は別のことを考えている可能性が高い。

自転車の価格が高騰したことによって、この道楽を始めることのハードルも高くなった。それでも、一定の割合の人々は高いコストを払って欲しい自転車を手にする。30万円のブロンプトンを欲しがる人に、8万円のダホンもありますよと説得しても無駄である。

かくして、自転車道楽もまた、財力がこの道楽を始めるための一つの必要条件になってしまった。しつこいが、昔はそうではなかった。カネをたくさん持っているような奴が自転車道楽を始める例は多くはなかった。

今は違う。経済力も違えば、欲しいものに至る道筋も違う。1980年代に有名になったキャッチコピーに、「いつかはクラウンに」というのがあった。当時トヨタの最高グレードの乗用車であったクラウンは多くの人の憧れであり、自分の人生の成功の褒章と証明のために最後に「上がる」車種とされていたのである。

それからしばらしくして、確か『こち亀』であったと思うが、「今の連中は『いきなりクラウンに』だからな」みたいなことが言われて笑えた。乗用車の世界では、すでにその頃から若者がローンを組んで高級車を買うようなことが始まっていたのである。

今、40万円や30万円のブロンプトンを買う若い人にローンを組む人が多いのかどうかは分からないが、少なくとも経済力にはそれなりの余裕があるのだろう。しっかりした企業に在籍し、ボーナスも高額でもらっているのではないかと思う。それは優等生でないとできない(昔の自転車乗りは逆である場合が多かったのだが)。若いうちに集合住宅の不動産を手に入れて、その玄関脇に折りたたんで置く自転車がブロンプトンなのかもしれない。

そういうことのためかどうか分からないが、ブロンプトンをテーマとしてブログやツイッターやnoteを書いている方々の記述内容は、どれも似通っている。それも無理はないという気がする。アンドリュー・リッチーという優れた設計者の世界観を愛でる人達の集団であるからである。経済力や意識の高い人々がブロンプトンの周りに集まっているように見える。

「いつかはブロンプトンに」というような考えは、今の若い世代にはなじまない。「いきなりブロンプトンに」が主流である。なぜなら彼らにはそれしか最適解が見当たらないからである。30歳ぐらいですでに不動産を手に入れてしまうセンチメントとも共通している。

しかし実際には、最適解などというものは存在しないのかもしれない。人生における最重要物を知るまで長い年月がかかるということも、知られてはいないだろう。

ある人々には、自転車は「解」なのかもしれない。人生における美しい約束を実現してくれる乗り物なのかもしれない。しかし私が何十年か自転車に乗ってきた結果は、良くも悪くもそうではなかった。

自転車は「解」ではなく、「問」なのである。行き着いて「上がり」となるところなのではなく、何かが否応なく始まる「問」なのである。その問には、一生かけても答えが得られるとは限らない。そういうものだということに、今更ながら、ようやく気付いたのである。

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