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夏の終りの旅2009/その3

 綾部に着いたら、舞鶴線と思われる列車が入線していた。綾部駅は山陰本線と舞鶴線の合流駅なのだ。停まっていたのは懐かしの湘南色113系(115系?)だ。ツートンのあいだに白い線を引っ張っているのが面白い。なんとなく、「帰ってきたウルトラマン」風でもある。
 橋上駅舎へと、階段を上がる。改札を出ると、Tさんが待っていてくれた。奥様と一緒だ。早速ご挨拶。
  会うのは初めてだが、少なくとも一年以上はメールなどでやりとりしていたので、リアルなTさんと会っても不思議にまったく違和感がない。
 私の最初の本、『静岡県サイクルツーリングガイド』を購読してくれたRさんと初めて会ったときもそういう感じだった。奇妙な話だが、ネットで知り合った人々の肉声を聞いたとき、私は今まで違和感を感じたことがないのだ。そういう人がほかにも何人かいる。
 なぜそんなことが起きるのだろうか。
 ひとつには、実際に会う前に、ネットで彼らの書いた文章を何度も読んでいるからだろう。ちょっとしたコメントや短いメールであっても、その人の書いた文章にはその人が確実に反映される。
 そして、これは案外多くの人が意識していないことなのだが、文章とは、聴覚の産物なのだ。確かに文字は視覚を通して意識に入ってくるのであるが、それが文章として<再生>されるときには、聴覚に頼っているのである。つまり<オーディオ>なのである。
 一定期間、漫画だけで読んでいた作品がアニメ化されたとき、声優さんの声に最初違和感を感じたことのある人もいるのではないだろうか。それは、漫画を読んでいるときに、主人公などのキャラの声を無意識に聴覚的にイメージしていたからにほかならない。
 ネットでやりとりしていた人と実際に会ったときの声に違和感がないのは、その逆に近いことなのかもしれない。

 ネットの人間関係とリアルな世界のそれでは、通常後者のほうがより真実味があると考えられている。しかし、それも状況によりけりだ。昔なじみの友達と、信義や世界観について意見を交換することはむしろ稀なのではないか。私個人の感覚では、ネットでその人が書いている文章のほうが、むしろ相対したときよりもより本人が現れているような気がして仕方がない。
 こう言うのもなんだが、私は人間関係ではけっこう神経質なほうなので、私と付き合ってくれているのはいい連中だという考え方がある。
 Tさんとは会う前に一年ぐらいネットでいろいろやりとりをしたはずだけど、衒わずに深い見識を持っている人だなと思っていた。私はどちらかというと不遜な人間なので、それを反映して、威張る奴が苦手なのだ。道楽で競争をしたがる人とも友達にはなりたくない。そういうのは現実社会でたくさんなのだ。

 人はよく、親友ができるのは若い間だけだ、と言う。
 嘘である。
  自分のことだが、若いアタマで考えられることなど知れているし、学校や郷里が一緒だからと言って、そのことで分かち合えることには限界がある。
 私個人で言えば、今親友と呼べる何人かは、大半が自分が本を書くようになってからできた友人だ。なぜそうなったかを考えてみると、本を書くようになってから知り合った人々は、最初から私のことをそういうやつだと見てくれているからである。だからこちらも気楽なのだ。
 そして友達は量ではなく、質である。
 100人の知り合いよりも、1人の親友だろう。
 これはもしかしたら、読書と通じるところがあるのかもしれない。まったく読まない人は書くこともしないだろうが、書き手というのは案外本をたくさんは読まないものだということが、しばしば指摘されている。
 速読で1000冊読むより、一生かけて繰り返し自分が素晴らしいと思った本を1冊読むことのほうが、得るものが大きいかもしれないのだ。
 同様に、始終会える人が友というわけでもない。数えるほどしか会えない人でも、どうしているのかなあ、元気だろうと思うけど、と気になる人がいるものだ。

 だいぶ脱線してしまったので、ここいらで本題に戻る。
 その日の行動予定は、初めて会うのに旧知の友と会ったような気分にさせてくれたTさんと、まずは綾部市内のポタリングをしようということであった。
 Tさんご夫妻にご挨拶したあとは、Tさんと私、男子2人で行動するということで、私はひいこら運んできたケルビムを組み立てた。そうして最初に向かったところは、駅のすぐ北側にあるグンゼの工場の入口付近なのであった。
 Tさんの自転車はキャノンデールだ。ツーリストらしくていいなあと思う。キャノンデールのスタートはツーリング用品からだったらしい。旅心を感じる自転車なのだ。塗装も美しい。

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 文化財級の社屋などあって、良い風情なのだ。道路から見ただけだが、やはりこういうのは西の街らしい風物だなと感じる。

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 自転車の友が素晴らしいのは、ああだこうだ言わずとも、一緒にサイクリングすればそれがともに過ごす最良の時間になる、ということなのだ。若い頃は一人で走るのが好きだったが、今は仲間がいることの愉しさやありがたさが身に沁みる年齢になったようだ。

「その4」につづく>

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