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ちぐはぐな自転車施策に思う

いまや、全国各地の自治体や観光協会で、なんらかのかたちで自転車をその施策に取り入れようとする動きが盛んである。
そのひとつは、間違いなく、「自転車の旅」を観光事業に取り入れようとすることである。それ自体はけっこうなことなのだが、実は「自転車の旅」を本当に経験している人は限られているのである。

たとえば、「自転車で宿に辿り着いて、翌朝も宿から自転車で出発するような一泊以上の旅をしたことがありますか」という質問にイエス、と答える人は、「自転車で一日100㎞以上走ったことがありますか」にイエスと答えられる人よりもずっと少ないはずである。

それもそのはずで、昨今の自転車ブームは、旅用の自転車ではないロードバイクを主体としているからである。
それでも自治体や観光協会は、なんらかのかたちで自転車を経済効果に結び付けたいと考えることが多いから、自転車の旅の啓蒙事業を行おうとする。
そういう場合、地元の自転車愛好者に声をかけて、「自転車の旅を啓蒙する組織」を構成しようとするのだが、実際には、上記のような具合で旅をしたことのある人は極めて少ないのが今日の実情なのである。
むしろ「自転車でサクサク長距離を走ることが旅だ」と勘違いしている人が多い。

「自転車の旅」がどういうものかわかっていない団体や協会が、これまた「自転車の旅」をしたことのない人々を集めて、「自転車の旅を啓蒙しよう」てなことをやっているのだ。

なので、実際にそういう啓蒙団体が活動を開始すると、実業団登録したりレーシングクラブに入って技量を磨くほどではないが、かといってゆるゆるとあちこち見て回るような女子供風のサイクリングはいやだ、俺はカーボンバイクに乗ってささっと100㎞は軽く走れる体力と技量のあるサイクリストなのだ、というようなプライドの高い人びとが往々にしてたくさん集まってくる。

彼らの本心は高い速度域で大量の獲得標高差とできるだけ距離を稼ぐことが目的なので、「旅の啓蒙」だったはずの走行会がいつのまにか練習会になってしまう。
旅心のある初心者のサイクリストが入ってきて、地域をじっくりと見るような走行を望むと、「そんなに休憩しないでください、もっと先を急ぎましょう」というようなことになる。

本当の旅心を持った初心者は、こういうことに仰天するのである。
「旅の啓蒙者」であるはずの自称ベテランの先輩方は、国道や県道ばかり走りたがり、その地域の文化特性がよく現れているような裏道や旧道を走るのはいやがる。
車にとって都合がいい道と同じところを自転車で走りたがるのである。

ロードバイクは高い速度域で路面に集中して乗る自転車であり、振動吸収特性や直進安定性および中低速の安定性に優れているわけではなく、また衣類や昼食程度の荷物の持参もほとんど想定されていない。
はっきり言えば旅用の自転車ではなく、またロードバイクでサクサク距離を稼ぎたい人は、「レースに出るのはいやだが、人よりも能力があることを示したい」サイクリストであることも多いため、旅をガイドするような立場に不向きなことは言うまでもない。
自分がガイドや後輩の世話をすべきなのに、彼らを自分の能力を示すための踏み台にしようとまでするケースが見られるようだ。

念のため申し添えるが、これはどこか特定の団体について言っているのではなく、あちこちでそういう話を聞くのである。
ロードバイクやローディを批判しているのではない。それは走り方のひとつだからけっこうなことなのだ。
ただ、「旅を啓蒙」しようとするなら、「練習」みたいな走り方は違うだろうと言わねばならない。

自分が負かせる相手を探して、勝てる相手となら走りたいと言うなら、おおいにやればいいのだが、それはやるべき場所が違う。
自分の凄さを他人に認めさせてそれで自分がもっと自分を愛せるというなら、レースなり、客観的に長距離走行能力が実証されるブルベのような耐久ランをやればいいのだ。
もちろんブルベも旅のあり方のひとつだと私は思っている。

ただ、自治体や観光協会など、特定の地域を対象として、そこに自転車の旅の文化を根付かせようとするなら、自分の凄さよりも、その地域の素晴らしさを発信できるような人々を啓蒙者として選ばなければならない。

自転車で旅をするようなことは、たとえばそれによって一定の外的記録が生まれるような「日本一周」とか「世界一周」や「1000峠走破」というような<偉業>を除けば、外的に誇りうるような意味はない。
その意味は内的にしか消化できないのだ。量的なことではなく質的なことである。
自転車で人と競い、その勝利の美酒として偉くなりたい人はそうすればいいのだが、それは地域文明を発掘するようなこととはほとんど関係がない。

自転車の社会政策的意味に着目して、都市の自転車環境をよりよくしようとする人びとは、自転車やサイクリスト全体に、ややポリティックではあるが公平な光を当てようとする。

自転車競技や、客観的記録が誕生する耐久ランなどを愛好する人びとは、多くの場合、自分の能力や存在感にスポットライトを当てようとする。勝負の世界はそういうものだから、それでいいのである。勝つことが目標なのだ。

自転車の旅は、定量化もできず、客観的記録もほとんど意味を持たない。自転車の旅人は、勝負というような二極性から離れて、その地域が持つ固有の魅力にスポットを当てなければならない。自分ではなく、地域の素晴らしさを見出せる感性を持たなければならない。

そのことの意味がわかる人は少ない。これが、今、全国で多発しているちぐはぐな「自転車による観光施策の推進運動」の理由のひとつである。

自転車で「偉くなりたい」人は、旅には向かない。むしろ、自転車で「バカになれる」人が、地域や地域文明の価値を見出せる人である場合が多い。

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