たたかうための宣言

 青松輝という歌人が、こういうnoteを書いていた。

 これについて、夜中にいろいろと考えたので、その一つの結論として、考えたことをここに書いていきたいと思う。”創作”という概念について、この青松の記事にあるそれを完全に引用するわけではないが、少なくともそこからの影響を多分に受けていることは先に述べておきたい。


  さておそらく、青松のような人間は、人生における創作の、その自己表現のアウトプット方法を人よりも上手く備えている。それは、単に彼が彼の創作において最も相性がいいアウトプット方法と幸運にも巡り合っただけかもしれないし、あるいはその方法が何であれ、彼自身の出力能力が純粋に高いだけなのかもしれない。
  いずれにせよ、彼には才能がある。

 私は、そのような人間にこれまで多く出会ってきた。そのたびに、私は、彼・彼女らにそういう類の才能を認め、見上げてきた。


  ここで、「そういう類の才能」が、前で言ったうちの前者にあたるならば、それはまだ自分にとって福音だ。すなわち、彼・彼女らは、自分の創作における自己表現に最も適したチャンネルを既に発見していて、そのなかで自らの創作を遺憾なくアウトプットしている。よかった。僕はまだ自分に合った自己表現の方法を見つけていないだけで、人間に眠る創作の泉は、皆に等しい量と質をもって実は存在しているのだ。僕はまだ、それを上手く湧かせられないだけ。もう取り返しのつかないところで、僕と彼・彼女らに差があるわけではないんだ。



  でも、現実はそうも甘くないかもしれない。もしかしたら、アウトプット上手の彼・彼女らは、別に特段の方法論的拘束もなく、あらゆるチャンネルで自由にその才能を輝かせられるのかもしれない。そうでなくても、僕がいつか理想のアウトプット方法にたどり着いたとき、そのチャンネルにいる先住民(もしくは、後からやってきたルーキースター)は、僕よりも圧倒的に強い輝きを放っているかもしれない。だから怖いのは、人間に等質に豊かな創作の泉など初めから存在せず、僕の泉は端から枯れていて、それなのに彼・彼女らの泉は美しく湧き続けているということだ。僕がどれだけ努力しても、アプリオリな差は埋められないのかもしれない…

 だから僕はここで一旦、僕自身を冷静に見つめてみる。そのうえで、青松の文をもう一度読んだ。

 才能あふれる青松にとって、”クリエイター”という言葉は、腐敗した体制側が創作世界における弱者と強者の差別的ピラミットを固定化させるために生み出したただの錬金装置にすぎないのかもしれない。

 しかし、クリエイターという言葉が持つ魔力は、むしろ真逆の方面に対する訴求力をも秘めている。つまり、これは僕自身の経験において、クリエイターという言葉を使うことによって、創作の出力に長けた彼・彼女らを自分と差別化し、クリエイターの名のもとにそれを讃えることによって、その”讃える”という立場に、自身の安住を見出している。クリエイターという言葉は、自身がクリエイターにならなくてもよいという、一首の贖宥状として、少なくとも僕の中では機能している。





 しかし、どうであろうか。私は、いま、ここまでの内省を経て、かくなる態度は退廃であると、はっきりと言明することができる。もはやこの議論に、クリエイターという言葉は必要ない。

 ここではっきりと宣言しよう。私はこれまでの人生においても、この文章においても、あらゆる手段をもって”才能ある者”と自らとを差別化し、彼・彼女らとの間に壁を作り、その向こう側を称賛することで自らに対する創作の責任を放棄し、壁のこちら側にある退廃につねに安住の地を見出してきた。

 それではいけない。私が信じるのは私自身の創作の力で、信じることで、今一度この退廃から自己の創作を解放しなければならない。才能の存在も、アプリオリの差があることも、結局はどこまで行っても証明できない、否定もできない。ならば、進むしかない。私は、私自身の創作を信じる。私自身のこれまでの人生を信じる。私自身のこれからの人生に対する自己による期待を求める。青松が言うように、人生が創作であり、創作が人生であるからだ。






と、勇ましくも高らかに宣言し、ハッピーエンドのBGMが流れる中で、私は、しかしそこに、なおも変わることのない私自身がいることを発見する。と同時に、またしても強烈な諦観が私を支配する。

 クリエーションの中に無力感を感じる自分も、それではいけないと思い、退廃を拒否してそこから創作を解放しようとする自分自身も、畢竟それすら単なる個体として、何らかの得体の知れない強烈な自意識の中で踊らされているだけだと感じられる。

 その永劫回帰からも、この強烈な自意識からも一生抜け出せない。しかし一方で、あるところではそのことに安心している自分がいる。またしても退廃の壁は再生され、住みよい場所が取り戻される。結局、また、何も変わらない。何も変えられない。

 この自意識は何であろうか。間違っても、自分に自信がないなどという極めて普遍的な”お悩み”にそれを落とし込むことはしたくない。私が今していることは高邁な創作活動なのだという自尊心が、わずかなストッパーとなって、私はまだ前進を志向することができている。

 結局のところ、たかだか2000字程度の決意表明ではほとんど揺らぐことのない、鬱屈な退廃の自意識が、今もなお私の創作を縛り付けて離さない。しかし、それでも私は書いた。そのことが、わずかでもこの自意識に対するブレイクスルーとなることを期待して、私は、いま私がここに描いた未来に対する、強いコミットメントを明日の私に要求する。


2022年9月28日の早朝に


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