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好きな言葉

 昨年の夏にインドに行った。友人に誘われ、単に観光目的で行っただけであったが、その国に行く他の多くの人と同じように、そこに訪れることで何か自分の中で価値観が変わるかもしれない、という淡い期待を抱かないわけではなかった。

 ありきたりな表現だが、インドはとにかく混沌とした国だった。一歩空港の外を出るとすぐに十余人の許教師に囲まれ、タクシーは手配したか、SiMはあるか、金を恵んでくれととにかくうるさい。街では牛が当たり前のように車の横を開歩しているし、車線や号を守っている車など一台もない。しかしそのような環境の中にいて、自分らが日常を生きる世界とは全く異なる光景を前に気圧されこそするものの、不思議と嫌な気にはならなかった。それが何故なのか、しばらくはわからないままだったが、旅の終盤になって訪れた西方の小さな砂漠の町で、合点のいく経験をした。

 私はその街で一つのホテルに泊まり、長い滞在をした。2、3日もしてくると、そのホテルや周辺のレストランで働く従業員たちが、黄色人への物珍しさか、親しげに話しかけてくるようになった。彼らとの会話の中で私たちは様々な話をしたが、その中で私は、彼らが飛ばした何らかのジョークに対して、そんなの無理だよ!という意味で、“it’s impossible”と言った。すると彼らはなぜか大笑いをして、ひとしきり笑い終わった後に、私に向かってこう言ったのだ。

 ”Not impossible. Everything is possible in india.“

 これは彼らのコミュニティではお決まりのジョークなのかもしれないし、もしかしたら私と彼らの拙い英語の中で何らかの行き違いがあったのかもしれない。しかしそれでも、私の頭の中には今なおこの言葉が強烈に残っている。私はこの言葉から、享楽的で、きわめて楽天的な彼らの息遣いを感じた。これは決して現在のインドの、国としての勢いのようなものに起因するものでは無いと思う。私はこの言葉に、インドに住む人々の性格の、その最大公約数を発見したような気がしたのだ。おそらく、私がこの国にいて、様々な経験をしながらも悪い気にならなかった理由も、ここにあるのだろうと思った。

 結局、インドに行って変わったのはカミソリを忘れたゆえの髭の長さくらいで、価値観などというものがわったかどうかは判然としない。しかし、あの時あの痩せ細った褐色のインド人に言われたあの言葉だけ今も私の好きな言葉として、胸の中にしまってある。私が楽天性を失いかけた時に、取り出して彼らの底抜けのポジティブさを思い出すために。




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