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何のために学ぶのか



 どこまでも続く長い道、あるいは、終わりの見えない細い洞窟を、僕はいつも歩いていた。そのペースはつねに不規則で、それでも、僕はずっと何かに向かって進んでいた。周りには他の人間がいることもあり、そのうちのいくつかとは、何らかの話をしたりもしたが、それとは無関係に、僕はいつも独りだった。





 いつも目的のために学んでいた。小学校のときそれは中学受験で、中学のときは定期テストの点数、高校の時は大学受験で、今は単位になった。時と場合によって目的は形を変えてきたが、勉強以外でもそれは変わらず、いつでも、学ぶことは手段でしかなかった。手段でしかなかったから、時が来たらすぐに忘れた。


 いつも数字のために学んでいた。それは時に偏差値で、時に点数で、時には検定の等級だった。いずれにせよ、僕は自分を客体としてあつかい、評価し、カテゴライズする数字を獲得するために、いつも必死で学んでいた。





 いつも誰かのために学んでいた。僕が目指していたあらゆる目的地はすべて僕ではない他の誰か/何かが設定したもので、その大小にかかわらず、僕はいつでもその誰か/何かのために学んでいた。つねに、そのことを強いられていた。





 いつも自分のために学んでいた。僕が学ぶのはいつでもそれが自分の利益になるからで、僕は僕に学ぶことを強いる構造的な主体に対して僕自身が従うことが、最終的には自分の利益を最大化するといつも信じていた。その盲信は僕の中に早い段階で丁寧にプログラミングされていて、だから僕が学ぶのは、結局は自分のためなのだとずっと信じてきた。





 いつも何のために学んでいるのかわからなかった。学ぶために用意されたあらゆる理由は総じてナンセンスで、学ぶことそれ自体への価値づけや意味づけを許さなかった。だから学ぶことが直接的に快楽をもたらすことは決してなかった。そういう意味で、僕は今まで、意味のある学びはひとつもしてこなかった。





 僕の歩みはいつも不規則で、その長い道を進んでいた。終わりがあるのか、ないのか、進むことに意味はあるのか、ないのか。ひとつとして答えはわからず、僕はまた独りだった。しかし/だから振り返るとそこには僕だけの足跡、轍、あるいはレールがあり、それは確かに僕がここまで進んできたということを示していた。それが正しいことなのか、わかることはきっとないのだと思う。しかし僕はこれからも進み続けるだろう。それしか僕には、できることがない。

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