第二部 安全保障という考えの始まりシリーズ


(担当:本会リポーター:和貴一三二)
第1話 初めて「安全保障」という考えを言い出した人
 一次大戦の講和会議(1918、於:ベルサイユ)において、戦勝連合国は、戦敗国ドイツに対してGDPの20年分にも相当する途方もない「賠償」を突きつけました。完済には100年以上もかかりそうで、ドイツ国民の「怒りと恨み」が、いずれ爆発すると思った隣国フランスの首相「クレマンソー」は、震え上がりました。「これは何とかしなくては!」という思いがsècuritè(仏語、原義:恐怖からの脱却)という言葉になって飛び出しました。(ドイツは、92年後の2010に賠償を完済しました。偉い!~の一言です。)

第2話 初めて「戦争放棄」という考えを言い出した人
 大陸は、大昔から「戦争のルツボ」と化していました。一次大戦を経ると、今後は、もう戦争しても、勝者・敗者双方とも、得る「利益」は少なく、被る「悲哀」や「惨害」に耐えられなくなるという認識が生まれました。もはや列強といえども戦争の勝利や防止ではなくて「もしかして戦争になるのでは?」という「恐怖」からの脱却を目指すようになりました。アメリカ大統領のウイルソンは、ベルサイユ会議において、世界中の国が「もう戦争はしない!」という「約束」を交わそうと提案しました。100年も昔のことです。
 
第3話 戦争しようものなら想像を絶する袋たたきにあう
 ベルサイユ会議において「もう戦争はしないという約束」なんて無用の夢想に過ぎないと批判されたウイルソンは憤然となって「もしもA国が他国を攻めたら、世界中の国々が結集してA国に襲いかかってくるという体制が出来上がっていれば、それを知るA国は、他国を攻めはしないだろう」と言いました。これは、国連憲章でいう「集団的自衛」(第51条)を拡大した総集団防衛の論理です。安全保障は、その上の次元にあります。                              
第4話 安全保障の発祥地はベルサイユ、本拠地は国連
 人は闘う動物でもあり、約束を破る動物でもあります。戦争は、もう止めようと、世界中が納得し約束しても、それを破る人は出かねません。そこで「約束を破らないで守ろうよ!」と不断に皆に「説得」し、誰かが破りかけたら「制止」し、破ったら「鎮定」するために「国際機関」(1920、国際連盟、1945、国連)が設けられ活動を始めました。説得、制止、鎮定ともに、脱武力によって成し遂げようとする機関であり、無用の夢想と嘲笑された安全保障の実現を目指す具体的な第一歩が踏み出されました。
 

第5話 国際連盟はなぜ潰れたか
 戦争が発生するのではないかという恐怖からの脱却を目指したのですが、
① 掲げた目標と人類の英知の歴史的発展段階の乖離が大きすぎた。
② 有力なリーダー国(米・露・独)が加盟しなかった。
③ 安全保障のバックアップ策としての武力行使が具体化されなかった。
④ 全会一致を基本としたため、各国の利害が絡んで決断が出来なかった。

第6話 共同の利益の場合を除くほかは武力を用いない(国連憲章前文:~armed force shall not be used, save in the common interest~)
 国連憲章は、自衛のための武力行使も禁じました。(第24条)しかし、発生した戦争を鎮定する安全保障理事会の措置が現地に届くまでの間を持ちこたえるために、暫定的に武力行使(個別的自衛、第51条)し、それに関係国が加勢(集団的自衛、第51条)してもよいと定めています。安全保障は脱武力ですから武力によって破綻する場合もなしとしません。破綻に瀕し、または、破綻してしまった安全保障を回復するためは武力行使も必要です。

第7話 人は哲学に生きる動物でもあります
 武力行使は戦争です。「もう戦争はやめよう」と皆で約束した安全保障は、あくまでも「脱武力」です。脱武力には、法的な「拘束力」はあっても、警察的な「強制力」がありません。いずれ約束を破る人が現れるとことはわかっています。しかし、心ある人々が、真っ正直に「努力!努力!努力!」と念じて「話し合い」を続けて止まなければ、人々は「感化」されて「知的」に進歩し「戦争はいけない!」と思うようになり、戦争はなくなります。
 
第8話 縄文人に学ぶ「権威・権力なき統治」
 縄文社会では、生活共同体域に、人々が異口同音に仰ぎ薦すリーダーが居て、八百万の神仏を祀って徳治をしきました。国という枠組みを作る必要はなく、人々の愛と信頼と尊敬によって社会が成り立っていました。地域の生態系に食の不安がなく、死の恐怖がなかったからです。現代においても、突き詰めていけば、安全保障は「衣食住」の安穏に帰結します。

第9話 戦争しても止むを得ないと思っている日本人がいるか
 縄文人が育んだ、世界にも稀有の和の心と和の文化は、内乱や戦争を知りません。その伝統は、日本人の深層心理の中に脈々と流れています。日本人は、世界で最も安全保障に近いところにいます。さらに世界各地の優れた文化に学んで「模倣同化」しましょう。「世界中の人々が訪日しやすくなるように投資しましょう。」ホテル、新幹線・ローカル線、警察官・自衛官などを増やしましょう。防災(防疫、避難、自家発電)AI(サイバー)です。安全保障の糸口が見えてきます。

第10話 現代の知識人の良識はあやうい
 人は「思い込み」やすく「洗脳」されやすい動物でもあります。意に反する考えでも、一定の期間、環境、頻度、方法、制度、処遇などに浸されると、芯から信じ込んで身につけかねません。「脳化」と言います。テロや、戦場における軍隊の殺し合いがそうです。知識人や科学人ほど陥りやすいと言われます。思いついた「仮説」の立証に「都合のいい情報」を選んで用いる性癖があるからです。政治家も恐怖の戦争にはまり込みかねません。

第11話 衆愚は愚にして愚に非ず
 人は、「いのち」を生きて「自己実現」を追求しつつ優れた「遺伝子」を後世につなぐ動物です。「考える」動物であり「良識」に生きる動物でもあります。うまく生きるためには戦争が「近道」であると思っても、戦争がもたらす耐え難い「悲哀」や「惨害」は望みません。程度の差こそあれ誰にも安全保障の心があります。3千数百年前のカディッシュの戦いも途中でやめて講和しました。「縄文伝来」の和の心、和の文化こそ安全保障を促進します。

第12話 United Nationsを国際連合(国連)と翻訳したグロスミス
 国連と言われると、あたかも国際の平和と安全を維持するために参じた国々の「良識の府」であるかのような錯覚に陥ります。実は、二次大戦において枢軸国に戦勝した「連合諸国」です。「敵国条項」という差別、「常任理事国」という特権に加えて「途上国」という数の専横や中国による重要機関の買収などが加わって、その体質は、一部の国々が「利権」や「覇権」を貪る場となっています。切歯扼腕、目に余ります。
 
第13話 脱武力の方策(国連憲章にある家伝)
① 経済、社会、文化、教育、保健に係る研究、報告、発議、報告、勧告(第62条)及び振興、協力の促進(第55条)
② 交渉、審査、仲介、調停、仲裁裁判、司法的解決、地域的措置(第33条)
③ 経済、運輸、通信、外交などの中断、断絶(第41条)
☆ しかし、その前に縄文人の和の心、和の文化の浸透を図りましょう。

第14話 今のままの国連ではあやうい
 国連は、発足後70数年、創建の柱である安全保障のために余り寄与していません。じ来200回近く発生した戦争は、すべて国連の「枠組みの外」において、当事国またはヴォランティア国グループが鎮定しました。
 今や、核、AI(サイバー)、パンデミック、生態系、宇宙などが複合化した三次大戦の影が迫っています。国連は「内部」の抜本的改革か「新たな枠組み」(第二の国連)への移行か「二者択一」の岐路に立たされています。EU、G20、有志連合などを基軸とする再編成案が囁かれています。
 
第15話 戦争がもたらす略奪と殺戮と奴隷化
 人類の生い立ちの途上において「大陸の争乱」と「縄文の和」というギャップをもたらした根本は「衣食住」にあります。今も変わりません。例えば突き詰めれば、食は、今昔を通じて自治圏内における基本食材の「自給率」であり、いのちは、今では、自治圏内における疫病の「自給率」です。それをもたらすのは「文明」です。この二つの率に「贅沢」の域が保障されれば、人々の間に生まれ栄えるのは「文化」です。戦争は起こりません。
 先史、歴史を通じて食が不足し、生産と交易が起こり、国が興り、貨幣や宗教が介在し、怠惰と強欲が生まれ、利権と覇権を招きました。

第16話 グローバライゼーションで戦争をなくせるか?
 天才物理学者アインシュタイン(1879~1955)は、世界が「一つの政権」(実現は不可能だが)のもとにまとまれば戦争はなくせると言いました。そうでしょうか? むしろ、地域の特性に応じた「小集団」を作って「徳治」し「AI」を用いて意思疎通と協働を果たせば、宇宙開発や災害対策などのビッグプロジェクトもさばけます。国も貨幣も要りません。戦争はなくなります。国連も要りません。それが来るべきグローバライゼーションです。

第17話 安全保障への近道
 国際社会の現状は、表に「建前」としての友好、裏には「本音」としての武力があり、両者を約束(条約・法)という「偽善」によって繋いでバランスが成り立っています。いずれが崩壊しても戦争になります。
 縄文社会には、そのような絡繰りはなく「和の心」と「和の文化」に基づく「徳治」によって成り立っていました。戦争は要りませんでした。
 このギャップを埋めるのが安全保障です。「戦争の恐れ」をなくすための知恵とアプローチは、縄文社会の研究から始まります。先史も歴史も「過去の藻屑」ではありません。「未来への道標」です。

第18話 戦争の防止と戦争の恐れの防止の違い
 戦争の防止:武力行使して攻めてくる可能性または蓋然性(脅威とも言います)のある①「敵国または仮想敵国」に対して②「武力行使による反撃・撃破」を核心において③「硬軟両様の施策」を講じ、戦争を止めさせます。
 戦争の恐れの防止:①「世界のすべての国」による③「武力行使しないという約束」を核心において②「脱武力」に徹して③「話し合い」を重ね、敵国または仮想敵国の存在しない国際社会を実現し、戦争の恐れをなくします。

第19話 防衛と安全保障の違い
 防衛は「戦争」です。「①敵国」が「②武力」を用いて攻めてくるのを待ち受けて反撃し「③撃破」します。(待ち受けないで攻めていく場合もあります。)「④武力」を充実し、同盟によって補強し、敵国に「⑤勝算」が立たなくさせ、攻めてくることを「⑥自制」させます。
 安全保障は戦争ではありません。国際活動です。世界中の国が戦争の放棄を「④約束」し、約束を破らないように「①呉越同舟」で「②脱武力」を貫いて「③話し合い」、戦争の「⑤恐怖」から「⑥脱却」します。
 
第20話 抑止と安全保障の違い
 抑止は戦争です。「①核兵器」による絶望的な「②恐怖」を「③敵国」に「④認識」させ、怯えの余りに戦争を「⑤放棄」させます。敵も同じ戦略を用いるので「⑥話し合い」によって恐怖を「⑦共有」します。
 安全保障は戦争ではありません。国際活動です。世界中の国が戦争の放棄を「②約束」し、約束を破らないように「③呉越同舟」で「①脱武力」を貫いて「④⑥話し合い」戦争の恐怖からの「⑤⑦脱却」を目指します。

第21 (余話)防衛と抑止の違い
 ともに戦争を待ち受けて「勝つ」戦略です。実体は「仮想攻撃」です。
 防衛は、敵国に対して、攻めていっても「①通常戦力」によって強大な反撃を受けるので「②勝算」が立たないという「③打算」を強います。戦争が在り得るという確率を瀬踏みしています。
 抑止は、敵国に対して、攻めていったら「①核兵器」によって絶望的な反撃を受けるので「②恐怖」ですくんでしまうように「③脅迫」します。戦争が在り得ないように目指しています。

第22話 危機管理と安全保障の違い
 ドイツが、一次大戦に敗れて、立ち直れないと思われるほどに国も国民も荒廃してしまったときに、国を挙げて経済的・精神的に起死回生を図ろうとするRisikopolitik(独、危機政策、1919)を敢行しました。その手法に学んで、米国が、世界恐慌(1929~33)から脱出する際にrisk management(英)と銘打ったのが始まりです。国の危機管理の中に安全保障、防衛、抑止などがあると言う人もいますが、原義は違います。

第23話 安全保障のまとめ
 戦争、防衛、抑止、危機管理のいずれでもありません。戦争になるのではないかという「恐怖からの脱却」を「地球規模」において目指す「国際活動」です。戦争の放棄を「約束」します。地球規模の「国際機関」を設けます。「呉越同舟」で集います。「脱武力」に徹して「話し合い」ます。あくなき「努力」を続けます。戦争の恐怖の防止の「グローバライゼーション」です。
 「破綻」する場合があり得ます。予め「配備」した国際の「武力」を用いて回復させます。(これは安全保障ではなく、抑止、防衛です。)

第24話 (余話)言葉の大切さ
 野生の動物は本能で考えます。人は言葉で考えます。直観も言葉です。考えを文字や音声に置き換えて意思疎通のために用いる「約束事」(手段)でもあります。一貫して「共通の意味」に用いないと、意思疎通が成り立ちません。或る人が、或る言葉を本来の意味を誤解して用い、それを人口の30%くらいの人が慣用してしまうと、言葉として通用してしまいます。社会が混乱します。安全保障、戦争、防衛、侵略、危機管理など「国の大事」に係る言葉は、不知や誤解がないようにしなければなりません。
 

 

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